アメリカはハリウッド出身のオルタナティヴ・ロック・バンド、ザ・キラーズがニュー・シングル「ランド・オブ・ザ・フリー」をリリースした。
かつてアメリカという国のことを語るにあたり、「自由の国」というキャッチコピー的なものがよく付いていたし、私が洋楽を聴きはじめた頃にヒットしていたニール・ダイアモンドの「アメリカ」という曲には、「自由の国アメリカ」という邦題が付けられていた。
ザ・キラーズのフロントマン、ブラドン・フラワーズは1981年6月21日生まれで、私よりも下の世代ではあるのだが、それでもアメリカが「自由の国」と呼ばれていた時代には思い入れがあり、願わくば現在もそうあってほしいと願っているのだろうか。
しかし、残念ながら現在のアメリカを「自由の国」と呼ぶことは、かなり困難であろう。それは、ドナルド・トランプのような人物が大統領であることによる。そんなアメリカのケツを舐めているような外交を繰り返す、かつては日出ずる国などと呼ばれていたアジアの国も、いまや虚言癖のサイコパスによって、実に恥ずかしい国に成り果ててしまった。もちろん絶望ばかりしているわけにもいかず、そこにも希望はあるし、終わっているならばはじめるのみである。
閑話休題。
「ランド・オブ・ザ・フリー」のミュージック・ヴィデオを、映画監督のスパイク・リーが撮影している。先日、地方を本拠地とするアイドルグループが、複数の男性から暴行を受けたが、運営がメンバーをまったく守ることをせず、それどころかこの事件を隠蔽しようとしていたことが分かった。この問題を解決しないことには、今後、他のメンバーが同じような被害に遭うこともありうる。そう考えたメンバーは、決死の覚悟で真実の一端をインターネット配信で語った。それはなんらかの理由でこの件を無かったことにしたい勢力にとっては、都合が悪いことであり、情報操作などによって、被害者であるメンバーに精神的な問題があるかのような風評まで流し、真実とは異なる(と、少なくとも私を含む多くの人々に思わせたであろう)別のシナリオを(あくまで私が個人的に受けた印象にすぎないが)メディアを用いてまで必死で信じこませようという、控えめに言ってクソオブザクソな案件があり、それについての言及に際し、やはりスパイク・リー監督による映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」のタイトルを出していたのであった。
メキシコとアメリカとの国境沿いに壁を建築することに執念を燃やすドナルド・トランプ大統領に対する抵抗が、この曲の根底にはあり、ウディ・ガスリー、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンの系譜ともいえるメッセージ性の強いバラードが、ゴスペル・コーラスを交えて歌われている。
ザ・キラーズは2000年代の前半にアメリカのオルタナティヴ・ロックではあるが、1980年代のイギリスのニュー・ウェイヴの影響を受けたようなポップでキャッチーな音楽性で注目を集め、商業的にも成功した。その次のアルバム「サムズ・タウン」は、よりアメリカン・ロック的な音楽性になっていて、ブルース・スプリングスティーンなどからの影響も指摘されていた。
あれから歳月は流れ、ザ・キラーズはついにその系譜にある音楽を完成させてしまったのだが、そこには父になったブランドン・フラワーズが現在のアメリカに対して感じる違和感、誇るべき理想とする自国のイメージとのギャップ、その辺りがテーマになっていると思われる。
ポップ・ミュージックは、たとえそれが純粋なラヴ・ソングであったとしても、すべからく「政治的」である。音楽に政治を絡めるべきではない、などという私にはちょっとなにを言っているかさっぱり分からない物言いは、マイルドなファシズムを完成させるために為政者が行う衆愚政治、政治のことはプロの専門家がやるから一般庶民はスポーツや芸能界や趣味のことだけに関心を持っていればいい、というような策略の忌まわしい成功例であろう。それに加担することは自らの首を絞めることに他ならないとしてもだ。
だからなおさら、そのような環境において正しいことを行うのはひじょうに困難をともない、それゆえに私は四半世紀以上も年下である、あのアイドルグループのメンバーをリスペクトする。
いずれにしてもザ・キラーズのような人気バンドが、このような曲をリリースしているだけ、そうは言っても、やはりアメリカの方がずっとましだと思えるのだ。
スパイク・リー監督によるミュージック・ヴィデオには、メキシコから自由を求めてアメリカへと向かう難民たちの姿が描かれている。ブランドン・フラワーズの祖母とその家族はリトアニアからの移民らしく、彼女がいなければ自分自身の存在はなかったのである。また、この曲の歌詞においては、アメリカにおける銃社会に対するカウンターをも含んでいる。