ビーチ・ボーイズだとばかり思っていた「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス?」が14インチのテレビの小さなスピーカーから流れ、映像はコマーシャルに変わった。日当たりの悪い部屋を出て、狭い通路を通って通りに出るまでの間に大家の家のベランダがあり、そこに水の張られていない水槽のような物が置かれている。これが大橋荘の住人にとってのポストの役割を果たしていて、たまには自分宛ての封書が届いていることもあった。たとえば、紋別の看護学校生からなどである。
ビーチ・ボーイズのベスト・アルバムは実家に置いて来ていて、「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス?」はあれに入っていただろうか。旭川のミュージックショップ国原で買った「サマー・プレゼント」という2枚組のLPレコードである。ビーチ・ボーイズのベスト・アルバムを買おうと思ったきっかけは、アイドル歌手の早見優が好きな音楽に挙げていたからだ。早見優が好きになった理由はいろいろあるが、ハワイ育ちで英語の発音がとても良い点はかなり大きなウェイトを占めている。
巣鴨駅の北口の方に行くにはそのまま通りを歩いても良いのだが、駅の中を通り抜けていく場合が多かった。キオスクで「オリコン・ウィークリー」が売られている。巣鴨駅の北口はロータリーになっていて、ベビーカステラの屋台が出ていることもある。右方向に成文堂書店が見える。よくある駅前の書店にしてはやや広めだろうか。村上春樹の新刊「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は分厚い本で、箱のケースに入っている。表紙にはパラフィン紙がかかっていのだが、最近の本にしては珍しいような気がする。父の書棚にあった文学全集のような物が、確かそんな感じだったような気がする。
村上春樹の本は高校生の頃に旭川のイトーヨーカドーの地下の書店で、「1973年のピンボール」の文庫本を買ったのが最初だった。意味はあまり考えていなく、乾いた感じがして日本文学っぽくないところが感覚的に好きだった。中学生の頃に角川文庫の赤い表紙の本をよく読んでいた、片岡義男のからの流れだったかもしれない。また、「ビックリハウス」で糸井重里が連載していた「ヘンタイよいこ新聞」に人気があり、当時のサブカルチャーが好きな少年少女にとっては、忌野清志郎や坂本龍一と並ぶほどの憧れの存在だったような気がする(実際に「宝島」の表紙にもなっていた)。その糸井重里と一緒に「夢で会いましょう」という本を村上春樹は出していたので、何となく読んだ方がいいような気はしていたのだろう。
「夢で会いましょう」は冬樹社という出版社から出ていたような気がする。マルカツの上の書店でよく見かけた。糸井重里「私は嘘が嫌いだ」「ペンギニストは眠らない」のように、ヤングアダルトに向けたスーパーエッセイ的な本がよく出ていて、代表的な物としては椎名誠「気分はだぼだぼソース」、南伸坊「さる業界の人々」、村松友視「私、プロレスの味方です」などが挙げられるだろうか。それらの多くは情報センター出版局から発売されていた。
憂鬱な雨の日が続く日々、ただでさえ日当たりが悪い部屋で、私はこの分厚い小説の本を読み続けていた。テレビでは松田聖子と神田正輝との結婚を報道していた。しかし、いまやそんな季節も季節も終わり、夏は本格的に近づきつつあった。ジェットストリームという清涼飲料水のコマーシャルで、藤井フミヤは「せっかく夏だし」と言っていた。「夕やけニャンニャン」の最初のオープニングテーマ曲はチェッカーズの「あの娘とスキャンダル」だったが、途中からおニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」に変わった。
平日の夕方にやっているこんな番組を誰が観ているのだろうと思いながら観ていたのだが、ケント・ギルバートがCMをしていた志学塾という予備校に行った友人に久し振りに会うと、よく観ているということであった。会員番号4番の新田恵利は前列で歌う4人のメンバーのうちの1人だが、芸能界にいるどの女性タレントやアイドルとも似ていない素朴さが感じられ、弾けるような笑顔が眩しかった。
「セーラー服を脱がさないで」の発売記念イベントが池袋のサンシャインシティ・アルバ噴水広場で予定されていたが、人が集まりすぎて中止されたらしい。私はこのレコードを買っていなかった。しかし、やはり買っておかなければいけないのではないか、という気がなんとなくしてきた。西友の2階にあるレコード店かDISC510が近いのだが、そこでは山下達郎やブルース・スプリングスティーンなどのレコードを買っていて、しかもよく行っていて今後も行くので、店員に今頃になって「セーラー服を脱がさないで」を買っているとは思われたくない。どこか他の所で買おうと思い、地蔵通り商店街を歩きはじめたのだが、レコード店は見当たらない。それどころか、どんどん寂しくなっていくのである。夕暮れから夜に変わりつつあった。この先どこへ行くのかまったく分からなかったのだが、とにかくずっと歩き続けていった。気がつくと滝野川なる所を歩いていて、1文字しか合っていないのに、橋本治「桃尻娘」の登場人物、滝上圭介を思い出したりしていた。
そして、板橋駅に着き、ロータリーの所に小さなレコード店があったので、そこで「セーラー服を脱がさないで」のシングルを買った。
成文堂書店を通り過ぎ、パチンコ店との間にはキャバレースナックのような店の看板があるのだが、曲がり角を右に折れて少し歩くと西友がある。地下が食品売場で1階にはチケットセゾンのカウンターがあり、ここで「星くず兄弟の伝説」の前売券を買った時にステッカーをもらった。2階にはレコード店があり、レジの近くにとんねるず「成増」のジャケットがディスプレイされていた記憶がある。エスカレーターで上がり、そこまで行き着くまでの間には家電製品などが売られていた。そこで小さな扇風機を買ったのだった。
扇風機の箱に取り付けてもらったプラスチックの取っ手を持ち、やはり巣鴨駅の中を通って南口の方に降りていった。電話ボックスがあり、繁華街のそれと同じように、中には風俗店の小さなチラシのような物がたくさん貼られている。おそらく違法だとは思うのだが、それほど厳しく取り締まられてもいないのか、お構いなしという感じで貼られていた。深夜にテレビを観ていると、RCサクセションが西武球場で行うライヴのチケットを優先予約できるということで、何枚かのコインを握りしめ、ここから繰り返し電話したのであった。なかなか繋がらず、その間、チラシを貼る人が外で待っていた。いよいよ耐えられなくなったようで、とりあえず貼らせてくれないかと言われたので、ドアを開けて素速く貼るのを見ていた。
横断歩道を渡った先には、いろいろな日用品を売っている店がある。大橋荘に住みはじめた時、母と妹も一緒に東京に来て、つくば科学万博や池袋のサンシャインシティに行ったりした。サンシャイン水族館では、ウーパールーパーを売りにしていたような記憶がある。着いた当日には大家に挨拶に行き、勧められたので秋葉原のロケットという店で冷蔵庫や炊飯器、テレビや電気スタンドなどを買った。巣鴨の吉野家で牛丼を買って帰り、初めて食べたのだった。吉野家の牛丼についてはラジオのコマーシャルなどで知っていたが、実際に店を見た記憶はなかった。少なくとも旭川には無かったのではないかと思う。
その時、この駅の南口を出て横断歩道を渡った先にあるいろいろな日用品を売っている店で何かを買ったような気がするのだが、いまとなってははっきり覚えていない。その後は乾電池を買ったりはしていたと思う。この業態のことをなんと呼ぶのだろうか。よく分からないのだが、なんとなくバラエティーショップというのがこれなのではないか、という気がした。佐野元春の「IT’S ALRIGHT」に「ヴァラエティショップを探して」という歌詞があったが、この店のイメージにはそれほど合っていないような気がする。その隣には花屋があった。
伯爵という喫茶店と同じ通りにある写真店の外には、今年デビューしたばかりのアイドル歌手の写真がずっと貼られているのだが、この店でレコードを扱っているわけではない。店となんらかの関係があるのだろうか。少し歩いて、横断歩道を渡った所に、また別の写真店がある。大橋荘に帰るにはここを渡ることが多かったのだが、この写真店ではカセットテープが安く売られていたため、FM放送からラジカセに録音するため、よく買っていた。
左に曲がると銭湯の草津湯と、隣にはコインランドリーがある。大橋荘には風呂が無いので、コインランドリーの洗濯機を回している間に、草津湯を利用することが多かった。脱衣所には自動販売機が設置されていて、一度も利用したことはないのだが、コーヒー牛乳などが販売されているような気がする。また、テーブルタイプのゲーム筐体も置かれていて、小学生が10円硬貨を積みながら興じている様を見ることがある。明石家さんまが「オレたちひょうきん族」でよく言っている「やめられまへんな」というのを、真似していたこともあった。
角に食料品店があり、ここではオリジナルの弁当も販売している。あらかじめ何種類かの惣菜が盛りつけられた容器が置かれていて、買う時に大きな炊飯器から温かい白飯をよそってくれる。何度か買ったことがあるのだが、普段はセブンイレブンのいかフライおかか弁当や、味の素のHOT!1シリーズなどを食べる場合が多かった。
この店の角に公衆電話があり、夜にあべにゅーのウェイトレスがヨーヨーをしながら電話をかけているのを見たことがあった。
再び平日の夕方で、夏が近づいているので外はまだ明るい。大橋荘は日当たりが悪かったとしてもだ。番組のコマーシャル前、ビーチ・ボーイズだとばかり思っていた「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス?」が流れ、とんねるずの石橋貴明がカメラに向かっておどける。スタジオは失われた放課後のように楽しげで、この先にはそんな気持ちになれるような日も訪れるのだろうかと、あやふやな期待を抱くのであった。窓辺では小さな扇風機が生ぬるい空気をかき混ぜ、郵便局員の影が大家の家のベランダの水槽に、紋別の看護学校生からの手紙を落としたとしてもだ。
「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス?」はボビー・フリーマンの1958年のヒット曲で、邦題は「踊ろよベイビー」である。ビーチ・ボーイズのカヴァーが有名だが、他にジョン・レノンやラモーンズをはじめ、数多くのアーティストによるヴァージョンが存在している。「夕やけニャンニャン」のコマーシャル前に流れていたのは映画「ポーキーズ 最後の反撃!」のサウンドトラックに収録されたデイヴ・エドモンズのヴァージョンで、この年にリリースされたばかりであった。
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