1991年のフリッパーズ・ギターや「ミュージック・マガジン」の印象。 | …

i am so disapointed.

「ミュージック・マガジン」の1991年9月号のクロス・レヴューでフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」が取り上げられ、なかなかの酷評をされていたようである。当時、「ミュージック・マガジン」を毎月買って読んでいたような記憶があるのだが、そのような印象はまったくなかった。もしかすると、もうすでに読むのをやめていたのかもしれない。1982年ぐらいから読み続けていた「ミュージック・マガジン」を買うのをやめたのは、確かこの頃だったような気がするからである。

 

しかし、やはりこの頃はまだ買って読んでいたはずである。なぜなら、この翌年、1992年のはじめの号において、やはりクロス・レヴューでXTCの「ノンサッチ」とライドの「ゴーイング・ブランク・アゲイン」が一緒に取り上げられていたことを覚えているからだ。当時、契約社員として働いていたCDショップには一般の書店よりも少し早く「ミュージック・マガジン」が納品されていたのだが、最新号が届くやいなや、ポップス売場の正社員たちは無言で食い入るように読んでいた。彼らの多くはXTCの「ノンサッチ」を気に入っていて、ある女性社員がいまひとつピンとこないということを言うと、先輩の男性社員からまだまだビーチ・ボーイズの聴き込みが足りないとか、そのようなことを言われていた。

 

私はライドの「ゴーイング・ブランク・アゲイン」がかなり気に入っていて、同じ契約社員にはUKインディー・ロックが好きな人たちも結構いて、同じ頃に出たザ・シャーラタンズだとかザ・キュアーだとかのアルバムの話をよくしていた。しかし、実際にメインの売場をつくったり仕入れをしている人たちには、このような音楽を下に見ているような部分が感じられ、それは当時の「ミュージック・マガジン」の雰囲気とも共通していたように思える。

 

当時、ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」が大ヒットしていて、それから元ハスカー・ドゥのボブ・モールドが結成したシュガーの「コッパー・ブルー」というアルバムなどもかなり気に入っていた。ブラック・ミュージックの商品担当をしていた正社員の方には昼食に一緒に行ってよく話したりもしていたのだが、ニルヴァーナがなぜこんなに売れているのか分からない、これを聴くぐらいならニッツァー・エブを聴いていた方がまだいいとか、ボブ・モールドがシュガーでやっていることはハスカー・ドゥの頃と基本的にそれほど変わっていなく、なんら新しいものではない、とかそのようなことをずっと言っていて、それらに比べるとアレステッド・ディヴェロップメントとかは新しいことをやっているのですごいとか、そのようなことも言っていて、まったく共感できなかったことを覚えている。

 

単純にその音楽がすごく好きだということと、サウンドが新しいかどうかということにはそれほど相関性がないような気がするのだが、いわゆるご意見番というか評論家的にポップ・ミュージックを聴くならば、そのような場合もあるのかもしれない。

 

小学生や中学生の頃にヒット・チャートに入っているような曲を聴いて楽しかったりワクワクしたりした経験の延長でポップ・ミュージックを聴いていたつもりだったのだが、20代になりふと気がつくと、私もやはり評論家的な音楽の聴き方をしていて、かつてのような純粋な気持ちでは接していないなと思った。

 

私は音楽を聴くことと同じぐらい音楽について書かれたものを読むのが好きで、1990年ぐらいには音楽雑誌だけでも「ミュージック・マガジン」「ロッキング・オン」「ロッキング・オンJAPAN」「クロスビート」などを毎月買い、ほぼ全ページを読んでいたような気がする。当時、イギリスのヒット・チャートでハウス・ミュージックやインディー・ロックとダンス・ミュージックを融合したような曲がよくランクインするようになり、それらは日本の音楽雑誌ではまだあまりちゃんと取り上げられていなかった。その頃、「remix」という音楽雑誌を書店で見つけ、確かはじめは「FOOL'S MATE」から派生したものだったような気がする(この記事を公開した後で、当初は「MIX」という誌名だったが、その後に「remix」になったというご指摘をいただきました。ありがとうございます!)。「FOOL'S MATE」は「ロッキング・オン」などと共に1980年代に書店の雑誌売場でよく見たのだが、なぜかなんとなく肌が合わないような気がして一度も買ったことがなかった。同じく、ある時期まで日本の洋楽雑誌で最も売れていたという「ミュージックライフ」も買ったことがなかった。ただし、「ミュージックライフ」から出ていたダイアリーのようなものは中学生の頃に買ったことがある。

 

「remix」にはまだ他の日本の音楽雑誌では取り上げられていないし、国内盤が発売すらされていないようなレコードやアーティストのことも取り上げられていて、それは海外のシーンと直結しているようでもあった。しかし、書いているのは日本人である。この人たちはどのように情報取集をしているのだろうかと、それがとても不思議であった。もちろんインターネットなどはまだ普及していない頃の話である。同じぐらいの頃にフジテレビで放送されていた「BEAT UK」のことも知ったのだろうか。これらのことは、フリッパーズ・ギターが「カメラ・トーク」をリリースし、私が強く衝撃を受けた1990年に起こった。

 

当時、イギリスのネオ・アコースティック的な音楽などを熱心に聴いている人たちが日本にはいて、フリッパーズ・ギターはその中から出てきたらしい。確か私が通っていた大学にもそのようなタイプの人たちがいて、フリッパーズ・ギターのデビュー・アルバム「Threee Cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」を薦められたことがある。なんとなくセンスが良くてお洒落な音楽なのだろうなという感じがして、確かJ-WAVEの「TOKIO HOT 100」のカウントダウンをダイジェストで放送する番組を、当時はテレビでやっていて、そこで少しだけ流れるのを聴いたことがある。歌詞は英語であった。確かに好きなタイプの音楽だとは思ったのだが、これは絶対に聴かなければいけない、というほどの切迫感にまでは至らなかった。

 

実はその翌年にリリースされたフリッパーズ・ギターのシングル「フレンズ・アゲイン」はまだ英語詞ではあったのだが、わりと気に入ってシングルCDを買ったのだった。そして、ついにはじめての日本語詞となったシングル「恋とマシンガン」である。これには衝撃を受けた。アズテック・カメラやザ・スタイル・カウンシルは高校生の頃に好きだったのだが、それは特にイギリスのそういう音楽をマニアックに追求していたという訳ではなく、当時の流行りとして消費していたというニュアンスの方が強い。アズテック・カメラの「ハイ・ランド、ハード・レイン」は高校の友人にキッド・クレオール&ザ・ココナッツのLPと一緒に貸してもらったのだが、ペンギン・カフェ・オーケストラとかと同様に涼しげな環境音楽のような感じで聴いていたし、それはトレイシー・ソーンの「遠い渚」などについても同じであった。当時、リアルタイムで聴いてはいたものの、流行の音楽としてカジュアルに消費していただけなので、ネオ・アコースティックとネオアコとは違うとか、フリッパーズ・ギターの影響によって起こった新たなネオアコ(-スティック)・ブームやそのファンを敵視したりする気持ちは1ミリも理解できない。これは「渋谷系」についても同様で、アニエスb.の服など買ったこともないような会社の先輩がパチンコの景品で小沢健二の「LIFE」のCDを手に入れて、金曜日の夜のカラオケパブで「ラブリー」を歌い、「OH BABY」の「OH」の部分で王貞治の一本足打法のポーズを取っていたようなところにたまらない良さを感じる。そして、スキンヘッドでレゲエが大好きな元上司の結婚式の二次会で、当時と同じように「今夜はブギーバック」をデュエットしたことなどもである。

 

それはまあいいのだが、とにかくザ・スタイル・カウンシルだとかに影響を受けたような音楽、しかも表面上をなぞったというレベルではなく、そのコアの部分を抉っているような感じを受ける音楽と、そしてなによりも日本語の歌詞である。それまでの日本のポップ・ミュージックにはなかったタイプのスタイリッシュでありながら文学的な歌詞で、ひじょうに切実である。このシングルだけならばたまたまだったのかもしれないが、その後にリリースされたアルバム「カメラ・トーク」で、それは確信に変わった。「カメラ!カメラ!カメラ!」「ビッグ・バッド・ビンゴ」といった曲においては、バンド・ブームの当時においてはやや1980年代的な懐かしさも感じさせ、それゆえに新鮮でもあった打ち込みの導入が、さらにこのアルバムの価値を高めた。

 

当時、私はイギリスのネオ・アコースティックだとかはまったく聴いていなかったし、どちらかというとヒップホップやハウス・ミュージックにポップ・ミュージックの未来を感じていたので、フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」もネオ・アコースティック的だったから好きだったのではなく、新しいポップ・ミュージックとしてひじょうにカッコいいと思ったのだ。

 

まったくの余談だが、1980年代前半におけるネオ・アコースティックは、当時のメインストリームのポップ・ミュージックに対するカウンターという側面はあったし、そこが姿勢としてパンクだと言われたり言われなかったりする部分であろう。当時、ニュー・ウェイヴという言葉はメインストリームを除くすべてのロック・ミュージックに対して用いられるようなものであり、エレ・ポップもネオ・アコースティックもファンカラティーナもニュー・ロマンティクスもポスト・パンクも、すべてニュー・ウェイヴであった。そして、バンド・ブーム華やかなりし頃、日本のポップ・ミュージックシーンに突然変異のように現れたフリッパーズ・ギターには、やはりあの頃のニュー・ウェイヴ的なアティテュードを感じた。この辺りはまったくどうでもいい話である。本当にどうでもいい。

 

さて、フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」は1991年7月10日にリリースされ、このアルバムを最後に解散してしまうのだが、「ミュージック・マガジン」1991年9月号のクロス・レヴューにおいて、このアルバムがどのように評価されていたのかというと、「甘っちょろい歌」「サウンドだって、みんなよそからの借り物」「自閉症ロック」「コンセプト・アルバムにしては”ほころび”が目につく」「こんなヘタなヴォーカル聞かせようという太い神経してるわりに、音の表情が淡白。もっと基礎体力つけてね」といった感じである。

 

「ミュージック・マガジン」のクロス・レヴューといえば、当時の編集長であった中村とうようがパブリック・エナミーの「パブリック・エナミーⅡ」に0点を付けていたたことが印象的だが、まあほとんどが好き嫌いという印象が強い。

 

当時、私はフリッパーズ・ギターが大好きだったので、ここまで酷評されていたとすれば印象に残っていてもいいものなのだが、まったく覚えていない。今回、久々にこのクロス・レヴューを目にして、そんなことがあったんだ、と思ったぐらいのレベルである。しかし、当時、間違いなく読んでいたはずなのだ。では、なぜ印象に残っていないかというと、おそらく惰性で読んでいたからだろう。

 

1991年には少し年下の新しい音楽ファンの人たちとの出会いがあり、共通点はフリッパーズ・ギターやUKインディー・ロックが好きだったということだ。特にすでに亡くなってしまった1人の男性のことは強く印象に残っているし、私の音楽の聴き方に大きな影響をあたえた。仕事の休憩時間に、彼は「NME」のボビー・ギレスピーのインタヴューを読んでいた。「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」のシングルを理解したいのだが、何度聴いてもよく分からない、プライマル・スクリームのことは大好きだし、ボビー・ギレスピーのやっていることに間違いはないはずなのでなんとか理解したいのだが、それが分からない、プライマル・スクリームである必然性が感じられない、というようなことを真剣に語っていた。私はこのピュアさに胸を打たれた。「ハイヤー・ザン・ザ・サン」がかなり気に入っていた私は、この「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」についても、ノリノリで最高じゃないかと能天気に盛り上がっていたのである。

 

彼はパステルズなどのアノラックと呼ばれるインディー・ロックを好み、それらの影響を受けた音楽をやるバンドもやっていた。私はポップ・ミュージックはもはや過去にやり尽くされたパターンをどれだけ新しくしていくかであり、たとえばビートルズなどを超えるものはけして現れないのだろうという諦念を持って、ポップ・ミュージックを聴いていた。しかし、彼はいまここで感じるリアリティーこそがすべてであり、よって、過去の名盤よりもそれらを踏まえていま、ここで感じている同時代の音楽こそが最高であり、今後もそれはずっと続いていくと言っていた。一度も読んだことがなかった「NME」を少しだけ見せてもらうと、ボビー・ギレスピーはマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」に匹敵するようなアルバムを本気でつくりたいと思っている、というようなことを言っていた。

 

他にもフリッパーズ・ギターの影響でネオ・アコースティックからはじまってフレンチ・ポップやサウンドトラックのレコードを買いはじめて、たまにDJもやっているというベレー帽とボーダーのシャツの女の子と知り合ったりもした。私は彼女のことを好きになった(!)ので、その好きな音楽も理解しようと思って、とりあえず「NME」を毎週買って読みはじめた。実はその趣味とは少し違っていたのだが、英文はそこそこ読めたのでわりと楽しめるようになっていった。彼女やその周りの人たちとも知り合い、遊んだりするようにもなったのだが、音楽への接し方がひじょうに純粋であり、それは私がかつて全米ヒット・チャートなどに夢中になりはじめた頃に近いアティチュードでもあった。彼女たちはフリッパーズ・ギターがラジオ番組でかけていた曲の情報を交換し合っていて、なけなしのアルバイト代からそれらのレコードを買い集めていた。私はそのラジオ番組を聴いたことが一度もないのだが、その影響力は絶大だったようである。

 

その後、フリッパーズ・ギターや解散後の小沢健二、コーネリアスなどを好む女性と仲よくなったり付き合ったことがあったが、「ロッキング・オン」や「ロッキング・オンJAPAN」を読んでいるケースはあったが、「ミュージックマガジン」を読んでいる人はいなかったと思う。他には「米国音楽」だとか「BARFOUT!」などが読まれていたような記憶がある。

 

XTCの「ノンサッチ」とライドの「ゴーイング・ブランク・アゲイン」が同じ号のクロス・レヴューで取り上げられていた1992年の「ミュージック・マガジン」で、1人の評者がXTC「ノンサッチ」の同人誌的な音楽よりも、なにかを表現したいという切実さが感じられるライド「ゴーイング・ブランク・アゲイン」の方が評価できるというようなことを書いていて、実はその人はいかにも「ミュージック・マガジン」的な価値観が漂う、当時の私の職場(契約社員だが)で見かけたことがあり、ヴァニラ・ファッジのことをヴァギナ・ファックとか中学生レベルの下劣なことを言っていて、当時から下ネタは大嫌いだったので、半ば軽蔑していたのだが、この件以来リスペクトするようになった。

 

「ヘッド博士の世界塔」のリリースから25年後、2016年の7月号において「ミュージック・マガジン」は「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」という特集を組む。「ヘッド博士の世界塔」は、その4位に選ばれている。それどころか、1位が小沢健二「LIFE」、3位がコーネリアス「ファンタズマ」と、上位4枚中の3枚をフリッパーズ・ギター関連の作品が占めている。1991年とは編集長もライターも異なるし、ポップ・ミュージックの評価は時代によって変わるものだとは思うので、たとえ同じ媒体だとしても、そこに評価の一貫性を求めるわけではもちろんないのだが、清々しいほどの変わりっぷりである。ちなみに2位はフィッシュマンズ「空中キャンプ」なのだが、この号の表紙にはフィッシュマンズのこのアルバムと共に、フリッパーズ・ギター「カメラ!カメr!カメラ!」のEPジャケットからトレースされたと思われるイラストが掲載されている。

 

もちろん書いているのはまったく別のライターなのだが、「当時のアシッド・ハウス~マッドチェスターに呼応、触発された作品として最高水準であったことは今も疑いようがない」とあり、リリース時に「サウンドだって、みんなよそからの借り物じゃないの」と評していた同じ媒体が、まったく違うライターによる文章だとはいえ、25年後には「91年時点ではそれが音楽表現の新たな可能性であり、元ネタ選びはセンスの良さのバロメーターであった」と認めている。つまり、1991年の時点において、このリアリティーがまったく感じられていなかったのだろうし、そこにもはや期待もしていなかったので、私は当時、このレヴューを読んだのに覚えていなかったのだろう。

 

私が「ミュージック・マガジン」をはじめて買ったのは高校1年の春、高校生にもなったことだし、もうちょっとヤングアダルト(死語)的な雑誌も読んでみようと、当時の実家の近くにあった太陽堂書店という小さな書店で「ビックリハウス」「宝島」などと一緒に買ったのだった。大きさがちょうど同じぐらいだったし、なんだか新しい扉を開けてくれそうだったから。当時、掲載されていたアーティストや作品にはまったく知らないものも多かったのだが、とにかく好奇心があったのでいろいろ読んでいくと気になるものもあり、レコードを買うとわりと良かったりもした。とにかく、いろいろなジャンルの音楽についての情報がこれだけ詰まっている雑誌は他に無かったし、コストパフォーマンスがとても高いと思えた。また、まったく知らない音楽についての記事には、当時はそれだけ未知の新しい出会いの可能性が感じられ、とても魅力的に思えたのだった。

 

しかし、1991年あたりに新しく年下の音楽ファンの人たちと出会ったり、海外のメディアにふれるようになると、そっちの方が楽しくなって、次第にあまり興味がなくなって、ある時期からは買わなくなった。再び買いはじめたのは実は数年前からで、その時にはサブスクリプションサービスでも音楽を聴くようになっていたので、記事で気になった曲をすぐに試聴できるのが良いと思った。

 

つまり、1991年のフリッパーズ・ギターのファンにはおそらく「ミュージック・マガジン」を読んでいない人が多かったと思われ、読んでいたとしてもそこにはある種の諦念があったため、まったく影響を受けなかったのではないかと思われる。

 

それにしても、フリッパーズ・ギターの作品におけるボーカルについて、「こんなヘタなヴォーカル聞かせようという太い神経」などと評する感覚については、好みの問題なので仕方がないとはいえ、まったく理解することができない。

 

ポップ・ミュージックのボーカルについて、上手いとか下手とかいうけれども、要は伝わるかどうか、良いと思えるかどうかであり、たとえばいわゆる歌唱力がとてもあると一般的にいわれる歌でも伝わるものがそれほどなかったり、技術的には拙いといわれても仕方がないようなアイドル歌手の歌でもものすごく感じたりということはよくあることである。そこへいくと、フリッパーズ・ギターのボーカルなどというのは、少なくとも私にとっては感じすぎてたまらないというものであり、逆にこれらの曲を朗々と歌い上げられてもまったく困ったものである。それは、たとえばパステルズだとかオレンジ・ジュースだとかのインディー・ポップについても言えることで、あれは一般的には歌が上手いとは言わないのだろうが、間違いなくメチャクチャ感じるし、感じない人には仕方がないけれども、あれだから最高なわけである。

 

「カメラ・トーク」の「すべての言葉はさよなら」における「痛いほど目を閉じた」、「偶然のナイフ・エッジ・カレス」における「唇噛んで 仕方がなくて」、これらのボーカルをはじめて聴いた時、私はたまらないリアリティーを感じ、これこそが忘れかけていたポップ・ミュージックの快感なのだと強く思った。

 

こんなにも思い入れの強いボーカルに対して、「こんなヘタなヴォーカル聞かせようという太い神経」などと書かれたならば、少なからずとも気分を害しそうなものではあるのだが、まったく記憶にないので、おそらく当時の私はあーこんなに良いものが分からないなんてかわいそうだなぁ、程度に思っていたのだろう。