ポピュラー音楽を主体的に聴くようになった頃、ユーミンこと松任谷由実はもうすでに大御所というイメージであった。1970年代の終わり近くの話であり、世の中ではニューミュージックが流行っていた。ニューミュージックの定義というのもなかなかあやふやなものではあったのだが、要は歌謡曲でも演歌でもない日本のポップス全般がそう呼ばれていたような印象がある。
「あの日に帰りたい」がオリコンシングルランキングで1位を記録したのはその数年前、具体的には1975年のことだった。アーティスト名が、まだ荒井由実だった頃である。私は北海道の苫前町という小さな町に住んでいて、小学3年生だった。流行歌はテレビを観て知っていたのだが、おそらく当時、荒井由実はテレビには出ていなかったと思われるので、その存在もまったく知らなかった。細川たかしと岩崎宏美がレコード大賞で最優秀新人賞を争った年で、私は「心のこり」の「私バカよね」という歌詞が面白かったので母にレコードを買ってもらったのだが、年末までには岩崎宏美の歌がかなり好きになっていて、応援していた記憶がある。雑誌を見ると岩崎宏美は東京の江東区深川出身と書かれて、北海道にも旭川の隣に深川という街があったので、勝手に親近感を感じたりしていた。
それはそうとして、1977年に旭川に引っ越してから、西武百貨店のレコード売場でよくレコードを買ったり買ってもらったりしていたのだが、その時に赤と緑の3Dメガネで見るようなタイプのジャケットのLPレコードをよく見かけたのだが、誰のレコードかはまったく知らなかった。いま思うと、あれはオリコンアルバムランキングで1位になった荒井由実のベストアルバム「ユーミン・ブランド」だったのだろう。
旭川に引っ越してからはラジオもよく聴くようになり、テレビに出ていない歌手の曲もいろいろ知っていくのだが、オリコンのデータブックを見ても、この頃、松任谷由実のシングルは大きなヒットになっていない。アルバムも「あの日に帰りたい」が大ヒットした後にリリースされた「14番目の月」とベストアルバムの「ユーミン・ブランド」は1位になっていたが、他のオリジナルアルバムについては、常に10位以内には入っているのだが、1980年代のある時期以降のように圧倒的にものすごく売れなくっていたというわけでは、まだなかったようである。
そういったわけで、なかなか聴く機会がなかったのだが、FM雑誌などを読んでいると、よく記事になっていて、なんとなく趣味の良い音楽ファンが聴くアーティストなのだろうというイメージは形成されていった。ところでFM雑誌と聞いて、ある世代以上の人ならばすぐにピンとくるのだが、もう随分前から完全に消滅してしまっているため、ある程度の説明が必要かもしれない。当時の音楽ファンはレコードを買う以外に、FMラジオから流れる音楽をカセットテープに録音して楽しむ場合が多かった。この行為を当時はエアチェックなどとも呼んでいたのだが、FM雑誌はそのための情報誌である。内容はアーティストやレコードに関する情報やヒットチャート、また。オーディオに関する記事とFM放送の番組表で構成されていた。隔週で発売されている場合が多く、これを買うと番組表を隈なく見て、エアチェックすべき番組、曲にマーカーなどで印を付けていた。番組によっては曲の分数まで掲載されていたため、どのぐらいの時間のカセットテープを用意すればいいかの目安にもなった。また、切り抜いてそのまま使えるカセットレーベルが付いている場合も多かった。オーディオにこだわるタイプの音楽ファンは小学館から出ていた「FMレコパル」をチョイスする場合が多く、他には音楽之友社の「週刊FM」、共同通信社の「FM fan」などがあった。後発の「FM STATION」はダイヤモンド社から発行されていたが、山下達郎のジャケットでもお馴染みの鈴木英人による表紙やカセットレーベルが好評であった。また、アイドルも取り上げるフットワークの軽いミーハー感覚が魅力であり、私はもちろんこの「FM STATION」派であった。「FM fan」の表紙には毎号、ピックアップされた1枚のアルバムジャケットが掲載されていたのだが、いかにも良質な音楽ファンが好みそうなニューミュージックやジャズ/フュージョンの作品が多かった印象がある。
1981年にシングル「守ってあげたい」がオリコン週間シングルランキングで最高2位の大ヒットとなるのだが、この曲は薬師丸ひろ子が主演した映画「ねらわれた学園」の主題歌であった。松任谷由実のシングルヒットは本当に久しぶりで、オリコンチャートブックで調べたところ、1975年に1位を記録した「あの日に帰りたい」以降は30位以内に入るのが初めてであった。ところで、今回、ディスコグラフィーを調べてみて、松任谷由実の代表曲とされているものには、シングルではないものがひじょうに多い。たとえば、山下達郎「クリスマス・イブ」と共にクリスマスの定番ソングとなった「恋人がサンタクロース」は1980年にリリースされたアルバム「SURF&SNOW」の収録曲だが、シングルとしてはリリースされていない。
松任谷由実はテレビには出ないアーティストというイメージがあったのだが、この曲がヒットしていた時に一度だけ「ザ・ベストテン」に出演して、しかも特に仰々しい感じはなく、普通に歌ってはけていったのが印象的であった。同時期に石川ひとみの「まちぶせ」がヒットしていたが、これは松任谷由実(当時は荒井由実)が1976年に三木聖子に提供した曲のカバーであった。何週間かは松任谷(荒井)由実による作品が2曲同時にトップ10に入っていたことになる。
この「守ってあげたい」を収録したアルバム「昨晩お会いしましょう」以降、松任谷由実のアルバムは出せば必ず1位という状態が続くようになった。当時はまだ後の恋愛の教祖的なイメージはそれほどなく、良質なニューミュージックのアーティストという感じであった。しかし、なぜかその作品はあくまで女性が聴いて共感するものという認識があり、現在では同じシティ・ポップという枠で括られることも多いナイアガラ系のポップスを好んで聴いていた私も、まったく聴こうとは思わなかった。別に好きではなかったとかそういうわけではなく、そもそも男性が聴くような音楽ではないと決めつけていたようなところがあるのだが、実際にはどうだったのだろうか。
それでもやはり新作をリリースする度に話題にはなるので、なんとなくいつどのような作品を出しているのかは把握していた。そして、当時、ラジオでよくかかっていた曲の多くもまた、別にシングルではなかったのだといまさらながらに気がついたのであった。たとえば、1984年のアルバム「NO SIDE」に収録された「DOWNTOWN BOY」は前年にヒットしたビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」にインスパイアされた曲らしいのだが、ラジオでよくかかっていてわりと気に入っていた。しかし、実はこのアルバムにはシングル曲は1曲も収録されていない。それでも、アルバムランキングでは1位になっていて、もはや安心のブランドという感じだったような印象がある。
この1年前、原田知世に書き下ろした「時をかける少女」が大ヒットということもあり、私にとってはアイドルポップス好きとしても松任谷由実の存在感がさらに増したのであった。そして、やはり原田知世に提供した「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」には静かな感動を覚えた。「夕焼けに小さくなる くせのある歩き方」という歌いだし、また、「ふるさとの両親がよこす手紙のような ぎこちないぬくもりほど 泣きたくなる」という表現が素晴らしい。当時、私は高校生で実家に住んでいたのだが、卒業後に家を出ることはすでに決めていたので、いつかこのようなことを思う日が来るのだろうかと先回りしてジーンとしていた。
しかし、これもFM放送からエアチェックしたものを聴いていたのであり、やはり、当時の男子高校生が松任谷由実のレコードを買うという行為はかなりハードルが高いように認識していたのだが、実際にはどうだったのだろうか。
その後、私は高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめるのだが、その年に松任谷由実は小田和正、財津和夫と共演した「今だから」というシングルをリリースし、オリコン週間シングルランキングで1位を記録した。私はこのシングルを買わなかったのだが、その後、CD化もデジタルデータ化もされていなく、1980年にオリコン週間シングルランキングで1位になったが音源を持っていない唯一の曲となっている。
大学に入学後は厚木のキャンパスに通いやすいように、小田急相模原のワンルームマンションを借りて住んでいたのだが、それでも通学には1時間以上がかかった。イトーヨーカドーの斜め向かいあたりにレコードレンタルの友&愛があり、ここはよく利用した。この年、私ははじめてCDプレイヤーを買ったのだが、CDレンタルのコーナーも1棚だけあり、カセットとCDのみでリリースされていたサザンオールスターズのコンピレーションアルバム「バラッド’77~’82」などを借りた記憶がある。帰宅するには北口の相模台商店街を歩く必要があったのだが、夏の間、なぜかこの「バラッド’77~’82」の一部が流れていた記憶がある。秋の終わりに松任谷由実の「ALARM a la mode」も借りたのだが、アルバムを通して聴いたのがおそらくこれがはじめてであった。「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使用されていた「土曜日は大キライ」が収録されていた。ディスコグラフィーを見ると、これも実はシングルカットされていなかったと知り驚いたのだが、非売品のサンプル盤としては製造されていたようである。
その翌年、松任谷由実の音楽を全編にわたってフィーチャーした映画「私をスキーに連れてって」が公開されたのだが、主演の原田知世が大好きだったこともあり、渋谷の映画館に観に行った。大学の帰りに観たような気がしていたのだが、よく考えると当時はまだ厚木キャンパスに通っていたので、おそらくこれを観るためにわざわざ渋谷まで行ったのだろう。佐藤正午の小説を原作とした「永遠の1/2」が同時上映だった記憶がある。北海道生まれの私にとってスキーはわりと日常的なものだったのだが、大学受験が終わった後で予備校の仲間たちと一緒に新宿から夜行バスに乗って長野県のスキー場に行き、はじめて東京の人たちにとってのスキーがどのようなものかがなんとなく分かった。行く前にヴィクトリアなどでウェアを選ぶ段階から、すでにテンションが上がっている。その時、私たちが行ったスキー場にはなぜかディスコまでがあり、入ってみるとDCブランドものと思われるスーツを着て踊っている人などもいた。あれをわざわざスキー場まで持ってきたのだろうか。
「私をスキーに連れてって」には、そのようなスキーの非日常的な気分が恋愛を絡めてうまく表現されていて、1980年にリリースされた松任谷由実のアルバム「SURF&SNOW」に収録されていた「サーフ天国、スキー天国」はそのテーマ曲として完璧であった。「自然は雪や太陽つれて レビューを見せに来る」というところが特に最高である。それから何年も経ってから、DVDが廉価版で販売されていたのでノスタルジーのみで買って観てみたのだが、当時のトレンディー映画というのみならず、娯楽作品としてもひじょうに優れた作品であったことに気づかされた。「私をスキーに連れてって」と同じ馬場康夫監督による1991年の作品「波の数だけ抱きしめて」は湘南のミニFM局を舞台にしていて、時代設定は1982年である。AORの定番曲が次々と流れ、時代考証もかなりされている印象がある。
「私をスキーに連れてって」が公開された少し後にリリースされた「ダイヤモンドダストが消えぬまに」で、私はついにはじめて松任谷由実のレコードを買った。「SWEET DREAMS」がシングルとしてもリリースされ、これは後に映画「波の数だけ抱きしめて」でも使われるのだが、他にやはり「オレたちひょうきん族」のエンディングで流れていた「SATURDAY NIGHT ZOMBIES」やいくつかのCMタイアップ曲を収録していた。私は「思い出に間にあいたくて」という曲が特に好きで、当時つけていた個人的に好きな曲ランキングにおいても、何週間か1位になっていたはずである。このアルバムタイトルにもあらわれているように、松任谷由実の作品の魅力はやがて消えてしまうきらめきの切なさであり、それが理解できた時にグッと好きになったのであった。当時、松任谷由実の音楽を聴いていたのは、やはり女子大生やOL、それもコンサバティブなタイプの人たちが多かったような気がする。実際に松任谷由実の曲で描かれているような日常を生きている人たちもいれば、それに憧れ、その世界観に没入することによって、自分自身をアイデンティファイしていたような人たちもいたような気がする。
この頃、CDが普及したことにより、旧作の再発やベスト盤のリリースなどが盛んになった。私はCDプレイヤーを購入してからわりとすぐにはっぴいえんどの「はっぴいえんど」「風街ろまん」が1枚のCDに収録されたものを買っていたし、他にも初期のRCサクセションやサディスティック・ミカ・バンドのベスト盤などを買っていた。荒井由実の「YUMING SINGLES 1972-1976」というのもリリースされていて、相模原のすみやというレコード店で買ったのだが、これが驚くべきクオリティーであった。デビューシングル「返事はいらない」のレア音源が収録されているということで話題にもなったが、アーティストには断りなく勝手に出されたアルバムだったらしい。しかし、私は当時、このアルバムに大きな衝撃を受け、しばらく繰り返し聴いていた他に、ラジオの深夜放送でたまたま聴いた「最後の春休み」という曲が気に入り、それが収録されたアルバム「Olive」を買ったりしていた。
当時、私の周囲にいた音楽ファンの友人たちは私が松任谷由実を聴いていることに対し、まったく理解を示してはくれなかった。この頃、松任谷由実の存在はすでに恋愛の教祖的なイメージで、その音楽を好んで聴かない人たちに対しても浸透していたような気がする。1987年に出版され、ベストセラーになった村上春樹の小説「ノルウェイの森」あたりから、よく分からない純愛ブーム的なものが巻き起こり、松任谷由実のアルバムも「ダイヤモンドダストが消えぬまに」から3作品は純愛三部作といわれたりした。
その頃、確か「鶴ちゃんのプッツン5」の告白系の企画に出演していたヤンキー風の男子が「『ノルウェイの森』を読んで純愛っていいなと思いました」と言っているのを観て、ここまで来ているのか、という印象を持ったことを覚えている。
松任谷由実は歌詞のネタを収集するためにファミリーレストランなどでカップルの会話に耳をすませているとか、恋愛対象として見られない異性には興味がないというような発言も目にすることがあった。
男性ファッション誌の「MEN'S NON-NO」が出版されたのは、1986年である。モデルの阿部寛や風間トオルがメディアにもよく出て、人気者となった。それまで、女性はルックス、男性は人間性で評価されるような、性差別的な風潮が日本社会には確実にあり、いまとなってはありえないし、いまだにその頃の価値基準で生活をしている人たちに対してはアップデートを促したいところなのだが、この頃から男性もルックスが評価基準とされるような時代が、確実に訪れたのであった。
「さわやかテイスティ」をキャッチコピーとした当時のコカ・コーラのCMには、そのような美男美女だけが登場し、私を含めたそうではない人たちにとっては、なかなか疎外感を抱かせるタイプのものではあった。
それで、私は当時、ヨット部に入ってお揃いのジャンパーをつくり、渋谷109の前で待ち合わせをしてコンパを開いたり、六本木のスクエアビルを貸し切ってパーティーを開いてユーロビートでヒュヒュー言いながら踊っているタイプの大学生に対し、マイルドな敵意をいだいていたのだが、たまたまゼミのコンパなどでそのタイプの人たちと一緒になると、実はめちゃくちゃ性格が良くて、まったくひねくれていないのだが、なんとなくこちら側を排除しているような空気感を感じるというような、絶妙に微妙な感覚を覚えた。
1988年に松任谷由実は純愛三部作の2作目にあたるアルバム「Delight Slight Light Kiss」をリリースするのだが、やはりシングルカットはされていないがリードトラック的に扱われていたのが、1曲目に収録された「リフレインが叫んでいる」であった。「どうしてどうして 僕たちは出逢ってしまったのだろう」という歌いだしではじまるこの曲は、やはり恋のはかなさを歌ったものであり、実際には万人に共通するテーマのはずであった。しかし、深夜の音楽番組で観たこの曲のミュージックビデオには、おそらくプロのモデルではあるのだが、素人のようなていで出演する美男美女のカップルが次々と映し出されていた。これが明らかにプロの役者による演技という感じならばまだよかったのだが、あたかも一般人という感じで出ていたことにより、特に美男ではない私などは勝手に疎外感を感じてしまったのであった。
だから、このアルバムは聴いていない。しかし、おそらく間違いなく良いはずなので、Apple Musicのカタログにも追加されたことだし、ちゃんと聴いてみようかと、いまさらながらに思うのである。
1990年にリリースされたスチャダラパーのデビューアルバム「スチャダラ大作戦」に「N.I.C.E GUY」という曲が収録されていて、後に藤原ヒロシのリミックスでシングルカットもされるのだが、内容は当時、相手側がこちらを眼中にも入れていないにもかかわらず勝手にマイルドに敵視していたタイプの人たちをディスったものであり、「今モテモテは 鈴木大地タイプ」「ALL LADY W浅野コピー」「みんな読んでる ハートカクテル」とか、リアルタイムでなければよく分からない歌詞(ライム)も多数あるのだが、その中に「家でユーミン 俺たちブーイン 奴らディスコでユーロで 家ではユーミン」というのもある。この曲を当時、私はとても痛快な表現として受け止めた記憶があるのだが、つまり当時、松任谷由実の存在とはそのようなものだったということである。
1989年に東京の調布市に引っ越し、近所のコンビニエンスストアでアルバイトをはじめた。深夜に長時間にわたり1人で入っていたことも多く、途中からはカップ麺や菓子なども発注もやらせてもらって、月に25万円ぐらい稼いでいた。当時、本部から送られてきた音源を常時流していなければならず、それは昔、カラオケやカーステレオなどで用いられていた8トラックと呼ばれるカートリッジテープに収録されていた。曲と販促のアナウンスとが交互に流れるのだが、そのうちの1曲に松任谷由実の「ANNIVERSARY~無限にCALLING YOU」であった。それまでのキラキラしたトレンディーなイメージとは異なり、わりと地味な感じのバラードであった。祝福的なイメージに解釈されることも多いというこの曲だが、私はやはり物事にはすべてに終わりがあるというようなメッセージを、この曲から受け取っていた。
深夜から朝にかけての勤務が終わりかけ、交替のために女子高校生のアルバイトが出勤してきた。彼女は20代男性の店長から気に入られていて、なぜかよく分からない寮の清掃という業務を割り振られることもあった。日曜日で、前日からの長い雨が降っていた。業務的に引き継ぎを行い、店のスピーカーからは「ANNIVERSARY~無限にCALLING YOU」が流れていた。「この曲を聴くとなんだか憂鬱になるの」と、彼女は言った。それが、1980年代最後の松任谷由実に関する記憶である。
先ほども言及したように、Apple Musicなどのサブスクリプションサービスで、松任谷由実の作品の配信がはじまった。当時、トレンディーすぎて聴かず嫌いしていたり、女子大生やOLしか聴いてはいけないのではないかと思って自粛していた頃の作品もすべて聴けるようになったのは、とてもありがたいことである。
実は今年のはじめ頃、昭和カルチャーの研究の一環として、社会に対してものすごく影響力があったと思われるが実はよく知らない松任谷由実のことを少し研究しようと思って、何枚かのアルバムを聴いたり関連する本を読んでいたりしたことがあった。その活動は実はいまも薄く続けてはいたのだが、今回、サブスクリプションでの配信がはじまったことにより、さらにやりやすくなった。
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