9月23日はブルース・スプリングスティーンの誕生日ということなので、1980年代にこのアーティストの音楽を聴いていた頃の記憶についてなんとなく適当に書いていきたい。
1980年に私は中学生で、洋楽のレコードをはじめて買った。シングルはポール・マッカートニーの「カミング・アップ」、アルバムはビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」である。その年のある時期から当時、「オリコン新聞」などとも呼ばれていた「オリコン全国ヒット速報」も毎週買って読むようになり、ポップ・ミュージックへの興味をより深めていった。
ブルース・スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」は、よくラジオから流れていた。当時、ブルース・スプリングスティーンが何者かもよく知らなかったのだが、「ハングリー・ハート」というタイトルがまずカッコいいと思ったし、曲もいかにもアメリカという感じでわりと気に入っていた。当時、日本にはアメリカの文化ならばなんでもカッコいいというような風潮があったのと、この年にはレトロなアメリカン・ポップスを思わせるような音楽がわりと流行っていたような印象がある。日本ではドゥー・ワップを取り入れたシャネルズ「ランナウェイ」や1970年代にアイドル歌手として活躍した岡崎友紀がYUKI名義でリリースした「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」(加藤和彦がロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」を意識して書いた)などがあった。アメリカのシンガー・ソングライター、J.D.サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」は日本でもそこそこヒットして、AORとして受け止められていたが、後に1960年代に活躍したロック歌手、ロイ・オービソンからの影響を強く受けたものだと知った。大滝詠一がこの翌年にアルバム「A LONG VACATION」を大ヒットさせ、後にシティ・ポップの名盤といわれるのだが、先行シングルでアルバムの1曲目に収録された「君は天然色」は、この「ユア・オンリー・ロンリー」にもインスパイアされたということである。ラジオから流れる「ハングリー・ハート」には、どこかこれらと似たようなものを感じていた。
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そうこうしているうちに私は中学校を卒業し、高校に入学していたわけだが、その頃には全米ヒット・チャートの上位40位にランクインしている曲ぐらいはほぼすべて把握しているような感じになっていた。日本のポピュラー音楽については、中学3年の頃にラジオ番組で聴いたのをきっかけに好きになった佐野元春が大滝詠一のナイアガラ・トライアングルに参加したこともあり、その周辺アーティストともされている山下達郎、杉真理など、後にシティ・ポップとされるようなタイプのものを主に聴いていた。一方で、アイドルポップスも好きでよく聴いていた。1970年代の後半にはニューミュージックのブームなどもあり、アイドルは下火だったのだが、1980年に松田聖子、田原俊彦などがデビューし、ヒットしたのをきっかけに息を吹き返し、1982年には特に後に人気者になる女性アイドルが数多くデビューした。「花の82年組」などという言葉も生まれたのであった。アイドルの曲を恥ずかしげもなく堂々と聴けるようになったきっかけの1つとして、1981年に大滝詠一が松田聖子に書いた「風立ちぬ」があげられるような気がする。ニューミュージックやシティ・ポップ、テクノポップのアーティスト達がこぞってアイドルに楽曲を提供するようになり、その中にはポップスとしてひじょうにクオリティーが高いものも少なくなかった。
ブルース・スプリングスティーンは1982年の秋に、アルバム「ネブラスカ」をリリースした。このアルバムはひじょうに地味なものであり、当時、ブルース・スプリングスティーンが4トラックのレコーダーで録音したということも話題になった。アルバムは全米チャート3位とヒットするが、当時のヒット・チャートに入っていたような曲とはまったく音楽性が異なり、アメリカでは1曲もシングル・カットされなかった。「ベストヒットUSA」で「アトランティック・シティ」のビデオが流れたが、やはりひじょうに地味なものであった。当時のアメリカは高度資本主義の矛盾が露呈しはじめた頃であり、深刻な不況が襲っていたということである。同じこ頃にビリー・ジョエルのアルバム「ナイロン・カーテン」がリリースされ、やはり深刻な内容をテーマにしすぎて商業的には失敗するのだが、その中でも最もヒットしたシングル曲「アレンタウン」は、やはり不況の影響を感じさせるものであった。
この頃は一方でAORが流行してもいて、マイケル・マクドナルド「思慕(ワン・ウェイ・ハート)」、ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」などがリリースされ、ヒットしていた。マイケル・ジャクソンの「スリラー」がリリースされたのはこの年の11月末だが、先行シングルはポール・マッカートニーとデュエットしたAORテイストの「ガール・イズ・マイン」で、ミュージックビデオも制作されていなかった。「スリラー」がモンスターアルバムへのギアを本格的に入れはじめるのは翌年にシングルカットされ、ビデオの影響もあって大ヒットした「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」からである。同時期に第二次ブリティッシュ・インヴェンションと呼ばれるイギリス出身の新しいアーティストたちも全米ヒット・チャートの上位に入りはじめるのだが、それにもやはりビデオの影響が強く作用したといえる。マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」、デュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、カルチャー・クラブ「君は完璧さ」などがヒットした1983年前半あたりから、全米ヒット・チャートの雰囲気は大きく変わっていったような印象がある。
そして、「ネブラスカ」はそのようなトレンドからまったく孤立するようにして存在し、しかも、しっかり売れていたのであった。当時は地味すぎてこのアルバムの魅力がまったく分からなかったのだが、後に大好きになったのであった。
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NEBRASKA
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1984年の春、ブルース・スプリングスティーンが新しいアルバムをリリースするというニュースを知った。そして、先行シングルの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」がリリースされるやいなやヒットして、アールエフラジオ日本の「全米TOP40」やNHK-FMの「リクエストコーナー」でもかかった。思っていたよりもかなりモダンなサウンドなのだが、それでもブルース・スプリングスティーンの渋いボーカルは健在である。歌詞は自分を変えたいと思ってもすでに変えることができない、中年男の苦悩を歌っているようである。当時、高校生であった私にその内容は共感できるようなものではなかったが、そのモダンでありながらロックンロールだという、なんとなくどっちつかずのような楽曲が、なぜか私はとても好きになった。
その年のはじめに当麻町に住んでいた友人からアズテック・カメラ「ハイ・ランド、ハード・レイン」とキッド・クレオール「愉快にライフボード・パーティー」のレコードを借りて、その音楽を風呂に入りながらよく聴いていた。当時、全米ヒット・チャートに入っていたような曲とはかなりタイプが違っていたが、とても気に入っていた。当時、ネオアコという言葉があったのかどうか分からないし、少なくとも私はおそらく知らなかったのだが、どちらかというと夏っぽいトロピカルな音楽として聴いていたような記憶がある。それから、ザ・スタイル・カウンシルの「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」がとても気に入り、アルバム「カフェ・ブリュ」はこれぞ待っていた音楽だとばかりに聴きまくっていたのであった。そこから派生してトレイシー・ソーン「遠い渚」なども聴いていたのだが、それでもネオアコもしくはネオ・アコースティックという言葉を知っていたかどうかについてはまったく記憶にない。
それでも、というかだからこそ、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」は心に響いた。当時、このようなストレートなロックンロールで、しかも当時のトレンドであったマイケル・ジャクソン「スリラー」とか第二次ブリティッシュ・インヴェンションなどにその強度において拮抗しうる音楽など、どこにもなかった。これは本当に新鮮だったのだ。やはり当麻町の友人の家にこのレコードを持って行って、日曜日の夕暮れにステレオで聴いていた。次から次へと流れる曲のすべてが、当時の私たちにとって正統的なロックンロールといえるものであり、それが古くはなくてカッコいい。それでもやはり、トレンドへの目配せというのもやはりあったようで、「ダンシング・イン・ザ・ダーク」の12インチ・シングルにはアーサー・ベイカーによるダンス・ミュージック的なリミックスというのも存在した。私はこの12インチ・シングルを夏休みに、まだ五番街ビルにあった頃の札幌のタワーレコードで買ったのだが、おそらく同じ日に玉光堂でザ・スタイル・カウンシルの「カフェ・ブリュ」以前のシングルを集めたミニアルバム「イントロデューシング」も買っている。その前後には菊池桃子のシングル「SUMMER EYES」を買って、札幌のデパートの屋上で行われたミニライブ&握手会イベントにも参加していたはずである。
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BORN IN THE U.S.A.
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そうこうしているうちに私は高校を卒業し、大学受験には失敗したのだが、とりあえず東京で一人暮らしをしながら予備校に通うことになった。その頃、USA・フォー・アフリカによるチャリティー・シングル「ウィー・アー・ザ・ワールド」がリリースされ、大ヒットした。西武百貨店池袋店のエスカレーターの近くにあった大きなスクリーンで、この曲やザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のミュージックビデオを何度か観た記憶がある。「ウィー・アー・ザ・ワールド」には当時のアメリカの人気アーティストが数多く出演していたのだが、物まねする場合には、シンディー・ローパーかブルース・スプリングスティーンのパートに特に人気があった。予備校の授業を受けていると、近くの席に座っていた男子が透明の下敷きのようなものに「ロッキング・オン」から切り抜いたブルース・スプリングスティーンの写真を挟んでいた。話しかけたかったが、東京に出てきたばかりで緊張していたので、それは叶わなかった。その後、ある程度の勉強はした甲斐もあり、翌年には志望校に合格することができたが、キャンパスが厚木だったので小田急相模原に引っ越した。
1986年に3枚組ライヴ・アルバム「THE "LIVE "」がリリースされるのだが、高価だったので買わなかった。当時、大学で同じ学級だった熊本の酒屋の息子が町田のワンルームマンションに住んでいて、金持ちだったのでトヨタ・ソアラなどにも乗っていた。彼がこのアルバムを買っていたので、あの町田のワンルームマンションで何度か聴いた記憶はある。エドウィン・スター「ウォー」のカバーがシングル・カットされていた。
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Live in Concert 1975-1985
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1987年の秋にアルバム「トンネル・オブ・ラヴ」がリリースされ、「ボーン・イン・ザ・USA」とは音楽性が変わり、渋い大人のラヴ・ソング集のような感じになっていて、賛否両論だったと記憶している。私はこれはこれでいいのではないかと思い、わりと気に入っていたのだが、それほど熱中して聴いたわけでもなかった。このアルバムにはブルース・スプリングスティーン自身の離婚も大きく影響しているといわれていて、愛を困難さなどについて歌われている。しばらくして、ここに歌われているような内容が私自身にとっても他人事ではないと思えた頃にこのアルバムを聴き直すと実に心に染みて、いまでは大好きなアルバムなのであった。秋の夜長に聴き直すべきアルバムの1枚として、今年も候補に入れておこうと思う。
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TUNNEL OF LOVE
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