ピンク・レディー「星から来た二人」の記憶。 | …

i am so disappointed.

「星から来た二人」は、ピンク・レディーが1978年11月5日にリリースしたアルバムである。私はこれを当時、リアルタイムで買ってもらい、聴いていたのであった。小学校で親しくしていた友人からは、もしピンク・レディーのレコードを何か買ってもらうとしても、これは選ばないと言われた。しかし、私がその活動中にピンク・レディーのアルバムを買ってもらったのは、これが最初で最後であった。他に何枚かのシングルは、買ってもらったり(「UFO」)、自分の小遣いで買ったり(「モンスター」)、妹に買ってあげたり(「ジパング」)していた。

 

このアルバムがリリースされた当時、ピンク・レディーはすでに「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」「モンスター」「透明人間」と、すでに8曲をオリコン週間シングル・チャートで1位にしていた。にもかかわらず、「星から来た二人」はピンク・レディー」にとって、2枚目のオリジナル・スタジオ・アルバムに過ぎない。その間にベスト・アルバムの「ベスト・ヒット・アルバム」また、ライブ・アルバムは「チャレンジ・コンサート」「サマー・ファイア’77」「バイ・バイ・カーニバル」「アメリカ!アメリカ!アメリカ!」と4枚もリリースされていた。そして、「星から来た二人」の翌月、12月5日にはまた異なった内容の「ベスト・ヒット・アルバム」がリリースされている。同日発売のシングル「カメレオン・アーミー」がすでに収録されているのだが、同様に前年のやはり12月5日にリリースされた「ベスト・ヒット・アルバム」にも、同日にシングルでリリースされた「UFO」がバージョン違いで収録されていた。

 

これだけシングル・ヒットを連発していたピンク・レディーだが、「星から来た二人」にはシングル表題曲が1曲も収録されていない。シングル収録曲では「透明人間」のカップリング曲であった「スーパーモンキー孫悟空」が入っているだけである。私の友人がピンク・レディーのアルバムを買ってもらうとしてもこれは選ばないと言っていたのはおそらくこのような理由によってであり、また、私があえてこのアルバムを欲しいと思った理由もそこにあったのだった。

 

このアルバムはA面が新曲、B面がテレビのタイアップ曲という内容になっている。A面1曲目に収録された「百発百中」の歌詞には、それまでにリリースされ、まさに百発百中の大ヒットを記録していたピンク・レディーのシングルのタイトルがいくつも入っている。そして、B面にはこの年が第1回であった日本テレビ系「24時間テレビ『愛は地球を救う』」のメインテーマ曲だった「2001年愛の詩」、当時、ピンク・レディーが歌っていた様々なCMソングをメドレーにした「コマーシャルソングメドレー」、そして、TBS系で放送されていたテレビ人形劇「飛べ!孫悟空」のオープニングテーマ曲「スーパーモンキー孫悟空」が収録されている。

 

「24時間テレビ『愛は地球を救う』」は1978年8月26日から27日にかけて放送された。私は当時、旭川の小学生だったので、夏休みはもうとっくに終わり、2学期に入って少したったぐらいであった。総合司会は萩本欽一、大竹しのぶ、大橋巨泉、竹下景子で、ピンク・レディーはチャリティーパーソナリティーとして出演していた。当初は1回だけの企画だったようなのだが、反響があまりにも大きかったため、翌年以降も継続されることになったのだという。私も当時、旭川の拓銀ビルと呼ばれていたビルの前で募金をして、ロゴマークが印刷されたポストカードのようなものをもらった記憶がある。

 

「飛べ!孫悟空」は「西遊記」をモチーフにした人形劇で、声をザ・ドリフターズのメンバーがあてていた。人形の顔もそれぞれの声をあてるメンバーに似せてつくられていて、孫悟空が志村けん、三蔵法師がいかりや長介、沙悟浄が仲本工事、猪八戒が高木ブーであった。加藤茶はコントでよく演じていたハゲ頭にメガネ、ちょび髭のオヤジとして、「西遊記」には出てこないオリジナルのキャラクターとして登場していた。オープニングテーマ曲を歌っていたピンク・レディーは実写で出演し、劇中でも短い歌を歌う場面があった。他にはアイドルグループのトライアングル(当初はキャンディーズジュニア)も出演していた。同じ時期に堺正章、夏目雅子、西田敏行、岸部シローが出演したテレビドラマ「西遊記」が放送され、番組中で使用されていた「ガンダーラ」「モンキー・マジック」などのヒットによって、ロック・バンドのゴダイゴがブレイクするきっかけとなった。なぜかこの時期、日本では「西遊記」がやたらと流行っていたわけである(同じ年に「SF西遊記スタージンガー」なるアニメーション番組も放送されていたようなのだが、これについてはまったく記憶がない)。

 

「スーパーモンキー孫悟空」には「ランボルギーニの おにいさん」というフレーズがあるが、これは当時のスーパーカーブームを反映してのものだと思われる。私はスーパーカーにはそれほど興味はなかったのだが、それでも旭川のどこかのデパートの屋上にスーパーカーが一堂に会するという催しには出かけた記憶がある。弟はスーパーカーのエンジンやドアの開閉音などが収録されたレコードなどを買っていた。当時、そういうのがたくさん出ていた。いろいろなスーパーカーがあったが、やはりランボルギーニ・カウンタックが一番人気だったような記憶がある。また、「ドロンにしびれる おにいさん」の「ドロン」とはフランスの映画俳優、アラン・ドロンのことであり、当時、日本でもひじょうに人気があった。和製アラン・ドロンなどと呼ばれていた草刈正雄はおそらく、当時、現在でいうところのイケメンの代名詞的な存在であったと思われる。西川のりおが「誰が草刈正雄やねん」というギャグをよく言っていたことからも、その可能性はひじょうに高い。また、榊原郁恵が1977年にリリースしたシングルに、「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」(作詞は森雪之丞)というのがある。アメリカの俳優、アル・パチーノのことを、当時はアル・パシーノと表記し、また、発音していた。

 

それはそうとして、私がこのアルバムを欲しいと思った最大の理由は「コマーシャルソングメドレー」である。とにかくピンク・レディーは当時、様々なCMに出演していて、たとえば歌番組や芸能バラエティー番組を観ていなかったとしても、テレビさえつけていればその姿を見ない日はなかった。まず、最も印象に残っているのは、ピンク・レディーの最大のヒット曲と同じ商品名のロングセラー、日清焼そばUFOであろう。ピンク・レディーのCMの印象があまりにも強いため、そのヒット曲にちなんで商品名が付けられたのかと思いきや、実はその前からこの名前で商品は存在していたようだ。カップ焼そばはすでに他社から発売されていたが、差別化を図るために容器を丸型にしたのだという。ちなみに、カップ焼そばの容器に四角いものが多いのは、縁日などで売られている焼そばの容器をイメージしたからだという。UFOという商品名も、おそらくこの丸型の容器から発想されたのではないかと思うのだが、公式的には「うまい・太い・大きい」の略ということになっているようだ。

 

シャワランビューティシャンプーの印象もひじょうに強く、このメドレー中にも何パターンかが収録されている。ピンク・レディーのレコードセールスは、連続1位の記録が途絶えた1979年の「ジパング」以降、急激に落ちていくのだが、1980年に起こった漫才ブームにおいては、島田紳助・松本竜介がピンク・レディーがシャワランビューティシャンプーのCMで言っていた「髪、いきいき」「つやつや」というセリフをギャグにしていた。

 

また、ナショナルの薄型ラジオ、ペッパーのCMソングも収録されている。胸ポケットに入るほど薄いということで、当時ひじょうに人気があった。ラジオの深夜放送などを聴きはじめたばかりだった私にとっても羨望の的であり、とても欲しかったのだが買ってもらえなかった。当時で1万円以上したらしい。

 

メドレーの中に入っている信州一即席味噌汁やキャロン肌着のCMソングについては、聴き覚えがなかった。

 

「キャッチ・リップ」は、雪印アイスクリームのCMに使われていた曲である。中でも宝石箱というアイスクリームのことは、とてもよく覚えている。アイスクリームに色の付いた小さな氷のようなものが入っているのだが、それが宝石のように見えたのである。実際に価格もアイスクリームにしてはやや高かったような気もするのだが、容器にもどこか高級感が漂い、本物の宝石が当たるプレゼントキャンペーンも実施していた。この年、私の家ではクリスマスに雪印のアイスクリームのケーキを買った。景品として、パラパラめくると写真のピンク・レディーが「透明人間」の振り付けをやっているように見えるアクションブックというのをもらった。

 

この頃、なぜかメドレーがよく流行っていたような印象がある。私は短い時間でたくさんの曲の良い部分が聴けるこの形式が、かなり好きであった。1976年の年末にリリースされたマイナー・チューニング・バンド「ソウルこれっきりですか」は、当時の日本のヒット曲をディスコ・アレンジでメドレー化したものであった。サブタイトルは「歌謡ヒット・イン・ディスコ’76」となっていて、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本に上陸する1978年よりも前に、ディスコはもうすでにある程度の市民権は日本でも得ていたことが分かる。この曲はオリコン週間シングルランキングで、最高2位の大ヒットを記録している。レコードはスタジオミュージシャンによって吹き込まれたものだが、予想以上に売れてしまったため、テレビでも歌う必要が生じてきた。そのために結成されたのがアイドルグループのアパッチで、テレビでは歌っていたものの、レコードに収録されていた歌はまったく別の人たちによるものである。アパッチは商業的に成功はしなかったものの、後にテクノ歌謡として一部の音楽ファンから再評価される「宇宙人ワナワナ」などを残している。

 

1977年の年末には六本木のバーでマスターをしていた平野雅昭によるユーモラスな演歌メドレー「演歌チャンチャカチャン」がリリースされ、オリコン週間シングルランキング最高3位の大ヒットを記録した。1978年には、清水アキラ、桜金造、あご勇などが所属していたお笑いグループ、ザ・ハンダースがグループサウンズのザ・ワイルドワンズによるヒット曲を各メンバーによる物まねメドレーによってカバーした「ハンダースの想い出の渚」がオリコン週間シングルランキングで最高22位を記録している。

 

アメリカでは1980年代に入ってからメドレーブームが少しだけ起こり、1981年にオランダのスタジオ・ミュージシャンによるスターズ・オンによるビートルズ・メドレー「ショッキング・ビートルズ45」が全米1位の大ヒットを記録した。その後、翌年にはビートルズの実際の音源を編集して作られた「ザ・ビートルズ・ムービー・メドレー」が全米12位(全英では10位)、同じくビーチ・ボーイズの実際の音源を編集した「ビーチ・ボーイズU.S.A.」は1981年に全米12位を記録している。日本ではビートボーイズなるグループによる吉田拓郎メドレー「スターズ・オン・23」がリリースされ、オリコン週間シングルランキング51位を記録するが、その正体がまだブレイクする前のアルフィー(現在はTHE ALFEE)であることは周知の事実であった。