サザンオールスターズ「ミス・ブランニュー・デイ」についての記憶。 | …

i am so disapointed.

サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」は1984年6月25日に20枚目のシングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高6位のヒットを記録した。

 

この曲は7月7日にリリースされたアルバム「人気者で行こう」にも収録されたので、私はシングルは買わずにこちらの方を買ったのであった。しかし、このアルバムを聴いていた記憶は、むしろ夏が終わってからの方が強く残っている。そして、当時、「ミス・ブランニュー・デイ」はまだヒットしていた印象がある。

 

当時のオリコン週間シングルランキングを見ると、「ミス・ブランニュー・デイ」は7月9日付で10位に初登場している。翌週は1ランク上がって9位、さらに翌週にはアルバム「人気者で行こう」がリリースされているのだが、にもかかわらずまだ10位に留まっている。当時からサザンオールスターズのアルバムはよく売れていて、例えば前作の「綺麗」がそうであったように、ヒット曲が収録されていなかったとしても、アルバムは1位になっていた。また、当時のサザンオールスターズはアルバムが売れるだけではなく、音楽評論家からの評価もひじょうに高かった。一般受けするような分かりやすい曲もあれば、洋楽ファンをうならせるようなマニアックな曲もあり、さらにこの頃はいろいろと実験的な試みも行っていて、そのバランスが最も絶妙だったのが1983年の「綺麗」から1985年の「KAMAKURA」ぐらいまでだったような気がする。

 

当時、音楽雑誌では「ミュージック・マガジン」と「ロッキング・オン」が読者も含め、対立関係のようなところもあったのだが、双方のトップである中村とうよう、渋谷陽一の両氏とも、サザンオールスターズのことは評価していた。これはかなり異例のことだったように、記憶している。

 

私は小学生の頃にテレビで「勝手にシンドバッド」を歌うサザンオールスターズを観て、コミックバンド的な面白さに興味を引かれたのが最初なのだが、もちろん楽曲の新しさにも感じるものがあったのだろう。同路線のシングル「気分しだいで責めないで」も買ったが、これもそこそこ売れたものの、二番煎じ的であり、このまま消えていくのではないかという予感もしたし、桑田佳祐は「ノイローゼ!」と叫んでいた。中学校に入学する頃に「いとしのエリー」が発売され、これはすぐに「ザ・ベストテン」にも入らなかったのでテレビでもあまり観なかったし、ラジオで聴いてもなんだか普通でつまらなくなったな、という印象を持っていた。しかし、何度も聴くうちに実はこれはすごく良い曲なのではないだろうかと思ってきて、それと共にだんだん売れてきて、何ヶ月もかけて最終的には「ザ・ベストテン」の1位になっていた。その後にリリースされた「思い過ごしも恋のうち」「C調言葉に御用心」などについては、中学生ながらに自分自身のパッとしない恋愛事情に結びつけて感情移入しながら聴いていたりもした。時々、エロティックでセクシーな表現が出てくるのもまた、中学生男子には程よくたまらなく、これが後に田中康夫によって、サザンオールスターズは基本的には現代の春歌である、というようなことを言われる原因にもなったのであろう。

 

それから、音楽制作に集中するためにテレビ出演を控えると、やはりセールスは低迷し、その間にイエロー・マジック・オーケストラが社会現象的なブームになり、田原俊彦や松田聖子がデビューしてアイドルの人気が復活し、山下達郎の「RIDE ON TIME」がCMで流れてヒットしたり、大滝詠一「A LONG VACATION」がすごく売れたりして、シティ・ポップが流行の音楽になったりした。この間、サザンオールスターズは大きなシングル・ヒットはないものの、アルバムが確実に売れるバンドとしての地位を確立し、一方で「Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)」における「You & Me, Oh, man go」など、日本語の放送禁止用語のように聴こえなくもない英語の歌詞を歌ったりもしていた。

 

そして、1982年には完全にシングル・ヒットを狙いにいったという歌謡曲テイストの「チャコの海岸物語」を大ヒットさせ、ヒット・チャートにも返り咲いたのだった。続く「艶色THE NIGHT CLUB」は「Night Clubで男も濡れる」「Night Clubは女も立たす」の春歌テイストで、これも売れた。当然のようにオリコン週間アルバムランキング1位に輝いた「NUDE MAN」に続き、秋には王道バラードのシングル「Ya Ya(あの時代を忘れない)」をリリースして、これもオリコン週間シングルランキングで10位を記録した。母校の青山学院大学での思い出を歌った曲で、私が後にこの大学に入学する理由の32%ぐらいはこの曲にあるといっても過言ではない。

 

翌年のシングル「ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)」はジャケットからしてPTAからクレームがつきそうなトップレスの女性であり、内容も春歌テイストだが、これもオリコン週間10位を記録した。そして、次のシングル「EMANON」は、この曲を収録したアルバム「綺麗」との同日発売であった。しかも、いかにもシングル・ヒットを狙ったという感じではなく、音楽的にはAORテイストで通好みだが、やや地味な感じもする曲であった。タイトルは「無題」を表す「NO NAME」を逆さに読んだもののようだ。ジャケットのデザインもアルバム「綺麗」とほぼ同じである。このシングルはオリコン週間シングルランキングで最高29位に終わり、久しぶりに10位以内に入ることができなかった。アルバム「綺麗」はヒットした「Ya Ya(あの時代を忘れない)」「ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)」が入っていなかったにもかかわらず、当然のように1位を記録した。そして、評価もひじょうに高く、「ミュージック・マガジン」のクロス・レヴューで中村とうようが10点満点を付けた。秋には原由子のソロ・シングル「恋は、ご多忙申し上げます」がオリコン週間シングルランキングで最高5位のヒットを記録するが、サザンオールスターズとしては年末の「NHK紅白歌合戦」でも歌った「東京シャッフル」がアルバム未収録にもかかわらず、最高23位に終わった。

 

それから半年以上のブランクを空けてリリースされたのが、「ミス・ブランニュー・デイ」であった。当初、「人気者で行こう」からの先行シングルは「海」の予定だったが、桑田佳祐の要望で「ミス・ブランニュー・デイ」になったのだという。「海」は「人気者で行こう」が当時、リリースされた唯一のフォーマットであったLPレコードではB面の1曲目に収録されていた。ニュー・ウェイヴ・バンド、ジューシィ・フルーツのために書き下ろされた曲であり、すでにこの年の春にシングル「萎えて女も意志を持て」(この曲も桑田佳祐が作詞・作曲をしている)のB面としてリリースされていた。AORテイストというか、シティ・ポップ的なバラードであり、ファンの間でも人気があるように思える。しかし、たとえばこの曲を先行シングルとしてリリースしたところで、「ミス・ブランニュー・デイ」のようにヒットしたかといわれると疑問であり、結果論ではあるが、やはりこれは「ミス・ブランニュー・デイ」にして正解だったのではないかと思う。前年の「EMANON」がそうであったように、サザンオールスターズのAORというかシティ・ポップ的な部分を好むファンはおそらくアルバムを買うのだろうし、シングルのヒットはあまり見込めなかったような気がする。「ミス・ブランニュー・デイ」については、明らかにサザンオールスターズのアルバムを買わない人が買ったところが、やはり大きい。

 

カップリングにアルバム未収録曲が入っていたりする場合、熱心なファンはそれも買うのだが、「ミス・ブランニュー・デイ」のB面は「人気者で行こう」にも収録されていた大森隆志によるインストゥルメンタル曲「なんば君の事務所」であった。

 

「人気者で行こう」がリリースされた翌週、「ミス・ブランニュー・デイ」のオリコン週間シングルランキングにおける順位は下るどころか再び9位に上がり、翌週から2週にわたって11位に低迷するのだが、さらに翌週には7位に上昇、翌週の8月27日付では最高位の6位を記録し、それから3週間後の9月17日付になってやっと10位圏外にダウンしたのであった。この間、1位を記録したのは小泉今日子「迷宮のアンドローラ」、小林麻美「雨音はショパンの調べ」、中森明菜「十戒(1984)」、松田聖子「ピンクのモーツァルト」、田原俊彦「顔に書いた恋愛小説(ロマンス)」、チェッカーズ「星屑のステージ」の6曲である。

 

「ミス・ブランニュー・デイ」で印象的なのは、シンセサイザーのサウンドとテクノポップ的にも聴こえるドラム、それにエモーショナルなギターが絡む」イントロである。なぜ、「人気者で行こう」を夏が終わってから聴いていた印象が強いかというと、おそらく高校の学校祭の準備をしていた時に、ラジカセでよく流していたからだと思う。私が通っていた高校では万灯行列というのがあり、学級ごとに万灯と呼ばれる御輿のようなものを制作し、それに灯を入れたものを担いで街を練り歩くのであった。その制作で、わりと遅い時刻まで校庭に残っていることもあった。私は2年の時は所属していた放送部ならぬ放送局で行うレコードコンサートの準備などもあり、あまりこの万灯制作にかかわった記憶があまりなかったのだが、この年にはわりとガッツリ参加していたような気がする。放送局にももう顔を出さなくなっていたことと、高校生活の最後ということもあり、思い出づくり的な気分もなんとなくあったのではないかという気がする。おかげでこの時のことはよく覚えていて、現在でも当時の友人と再会すると、ほぼ変わらぬテンションで盛り上がる。

 

クレープで使う生クリームをぶつけ合って遊んでいたところ、担任教師に見つかり、みんながお祭り気分でワイワイやっているところ、手に生クリームを持ったまま立たされていた者や、男子が焼き鳥の模擬店をやるということになっていたが、具材の注文はしていたものの、直前まで全く準備が進んでいないことに、なぜか一部の女子がブチ切れて、「男子は夢ばっかり見てる」「私、キャンセルしてくる」と泣き叫びながら教室を出て行こうとしたところを、一言で制止した男子のカッコよさ、結果的に焼き鳥の模擬店は大成功して、完売したのだが、あの制止した時に男子が言っていたのは、おそらく「ちょっと待てよ」だったと思うのだが、長年にわたって何度も話しているうちに、あれは「ちょ、待てよ」だったのではないかという話になっていて、木村拓哉が流行らせるよりもずっと早かったということになっている。

 

そして、夜に万灯を制作しながらラジカセで「ミス・ブランニュー・デイ」が流れてきて、持っていた何らかの道具的なもので、私がドラムのリズムを真似すると、友人が渋い顔をして、「テレレテーレテー、テレー」とギターのフレーズを歌うのであった。その後、「ふぞろいの林檎たちⅡ」で何度も流れたり、その他、いろいろなシチュエーションでこの曲を聴いたはずなのだが、いまだに最も印象に残っているのはこの時の感じである。

 

今回、この曲のことを調べようとインターネットを検索すると、おそらくリリースされてからしばらくして書かれたと思われる、ある紹介文を見つけた。それによると、この曲は「ファッションや流行に流される当時の社会に警鐘を鳴らしたメッセージ・ソング」なのだという。歌詞の内容や時代背景からして、後にそう解釈されるのも致し方のないところもある。確かに桑田佳祐の歌詞には世相を批評したようなフレーズも見られる。しかし、確か当時、桑田佳祐も語っていたように、この曲の本質はそんなところではなく、そんな流行に敏感でありふれているように見える女性が素敵に見えて、好きすぎて仕方がないと、そういうことではないかと思うのだ。

 

この前の年にイエロー・マジック・オーケストラが解散ならぬ散開し、テクノブームはさらにそのずっと前にもう終わっていた。しかし、それが日本のポップ・ミュージック界にあたえた影響は大きく、シンセサイザーやシンセドラムを用いたテクノポップ風の歌謡曲や流行歌が次々と生まれ、それらは後にテクノ歌謡として再評価された。AORやフュージョンから影響を受けたシティ・ポップ的なものからテクノ歌謡的なものへと、日本のポップ・ミュージックのトレンドは変化しつつあったのだろう。その境界ともいえるのが、おそらく1984年から1985年あたりではないかと思うのだが、この時期に「人気者で行こう」の先行シングルをシティ・ポップ的な「海」ではなく、テクノ歌謡的な「ミス・ブランニュー・デイ」にした桑田佳祐はやはりすごいとか、そんなことを思ったりもする。