「新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ」を読んだ。 | …

i am so disapointed.

少し前にツイッターのタイムラインにその情報が流れてきて、気になっていた本があった。「新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ」というのがそのタイトルで、著者は1967年の中村保夫さんだという。主に1980年代の新宿のディスコ・シーンについて書かれていて、ディスク・ガイドもあるということだった。

 

今年は映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本で公開されてからちょうど40年目ということで、色々と盛り上っていることは音楽雑誌などを見て、何となく知っていた。数ヶ月前、「レコード・コレクターズ」でも「ディスコ・インフェルノ!!」という特集が組まれていて、なかなか面白かった。

 

「サタデー・ナイト・フィーバー」が公開された年、私は旭川の小学生だったが、それでもブームになっていることは分かっていた。「土曜の夜はフィーバーしよう!!」というCMはよく流れていたし、ラジオでもディスコの曲がよく流れていた。まだ洋楽を意識的に聴いてはいなかったが、ビー・ジーズ「恋のナイト・フィーバー」、アース・ウインド&ファイアー「セプテンバー」、シック「おしゃれフリーク」などは、あまりにもラジオでよくかかっていたので知っていた。

 

翌年にはヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」を西城秀樹が「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」、「イン・ザ・ネイヴィー」をピンク・レディーが「ピンク・タイフーン」としてカバーし、ヒットさせたりもしていた。また、海外のディスコ・ソングが日本でもヒットする他に、ディスコの影響を受けた歌謡曲や、春日八郎の「お富さん」をディスコ・アレンジしたものなどもあり、猫も杓子もディスコでフィーバーという様相を呈していた。その後、洋楽を意識的に聴きはじめ、主に全米ヒット・チャートをチェックする私は、後にディスコ・クラシックとなる数々の楽曲にもリアルタイムで出会うことになる。しかし、それはあくまでラジオで聴いたりレコードを買ったりすることによって親しんだだけであり、実際にディスコで聴いたり踊ったりしたわけではなかった。というか、たとえば中学生の頃、ディスコに行こうという発想がまずなかった。高校生になるとディスコに行っているという女子から話を聞くことはあったが、実際に行くことはなかった。その時に聴いたのは、どうやらデュラン・デュランの「プリーズ・テル・ミー・ナウ」などで盛り上がっているということであった。

 

当時、ダンス・ミュージックの12インチ・シングルを集めている友人がいて、旭川のレコード店には置いていないようなものは通信販売で買っているようだった。私が大学受験のため、東京に滞在することになった時には、買ってきてほしい12インチ・シングルのリストとお金を渡されたのだが、アメリカやイギリスのヒット・チャートをわりとこまめにチェックしていた私でもまったく知らないものがほとんどであった。また、当時、同じ学校の遊んでいる学生たちの間でハイエナジーと呼ばれる音楽が流行っているという話があり、彼らは卒業の時に即席のバンドを結成して、ライブを行ったのだが、同じ編成でTHE MODSの「激しい雨」とハイエナジーの人気曲だという「セックス・ダンス」という曲をどちらも演奏していた。私は友人がやっていたザ・スターリンのコピーバンドで、「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」という曲の時だけ、ゲストで出演していた。

 

高校を卒業すると東京の大学に進学しようと思っていたのだが、受験の結果が芳しくなく、それでも東京で一人暮らしは始めて、予備校に通おうということになった。少しすると、同じ予備校に友達ができはじめたのだが、そのほとんどが生まれてからずっと東京に住んでいる人達であった。中でも特に親しくしていた2人は共に早稲田実業高校出身で、都営三田線の沿線に住んでいた。勉強をしている以外は、とにかく時間がたっぷりあったのだが、予備校生という立場上、大っぴらに遊びまくるのも気が引ける。予備校があった水道橋から神保町あたりをぶらついたり、喫茶店でとにかくくだらない話をずっとしていることが多かった。そこでは当然、高校時代の話なども出るのだが、やはりずっと東京で過ごしてきた人たちは違うな、と思わされることも多かった。子供の頃に「ママとあそぼう!ピンポンパン」に出たことがあるとか、レコード店に貼ってあったポスターに写る新人アイドル歌手と、以前に少し付き合ったことがあるとか、そういう話が普通に出てくる。そして、やはりディスコで遊んだ話がよく出てくるのだが、当時の東京の高校生にとってディスコとはけして一部の遊び人が行く場所ではなく、きわめて日常的なところなのだな、という印象を受けた。

 

それで、大晦日の夜には浪人生にもかかわらずみんなで集まり、忘年会のようなことをやった。そして、夜も遅くなったのでディスコに行こうということになり、確か渋谷のキャンディキャンディという所に行ったのではなかったかと思う。どのタイミングでだったのか忘れたのだが、どこかでエレベーターを待っている時に、ふとそこにあったテレビに目をやると、「NHK紅白歌合戦」をやっていて、その年が初出場の原田知世が映っていた。前の年までは実家でこれを観ていたはずなのだが、こうしてこれから都会に染まっていくのだろうと思った昭和60年の年の暮れであった。ディスコではいろいろな曲がかかっていたのだがよく覚えていなく、やはり私立高校出身の友人が主に女性に声をかけることにも成功し、チークダンスを踊っていた。ユーリズミックスの「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」がかかっていたことは、なぜかよく覚えている。もはや深夜の何時ぐらいかすら定かではなかったのだが、解散してそれぞれ家に帰るという流れになった。東京では大晦日には電車が深夜でも動いていることを初めて知り、驚いたのであった。私はなぜか千石のアパートには帰らず、水道橋の近くに住んでいた友人の家に一緒に行った。彼は予備校にもあまり来なくなって、周囲からも心配されていたのだが、受験はとりあえずするのだが、合格しなかった場合は東京キッドブラザースに入る、というようなことを言っていた。

 

その後、私は大学に合格し、キャンパスが神奈川県だったので通いやすいようにそのわりと近くに引っ越した。そのため、都心に出る頻度はかなり減ってしまった。最寄り駅のすぐ近くにパチンコ店があり、その2階の喫茶店でアルバイトを始めた。カフェではなく純喫茶を名乗っていて、店内ではクラシック音楽の有線放送が流れていた。コーヒーはブレンドとアメリカンの2種類しかなかったが、食事はスパゲティーやハンバーグやカツレツやトーストなど、わりと充実していた記憶がある。閉店後、掃除をする時には有線放送のチャンネルを洋楽ポップスに換えるのだが、マドンナの「トゥルー・ブルー」はその時に初めて聴いたような気がする。そこで、同じく大学一年生で、国士舘大学に通っているという学生がアルバイトをしていた。少し茶色く染めたその髪型は、リーゼントをソフトにしたような感じであった。やはり高校時代によくディスコで遊んでいた話を聞かされたのだが、ハイエナジーの曲に独特なかけ声を入れるのが恒例だったのだという。私も高校時代から曲は知っていた「セックス・ダンス」や、何やらビデオのことを歌った曲について話してくれたのだが、そのかけ声の内容たるやひじょうにストレートな下ネタであり、トータル的に私が「宝島」などで読んで憧れていたのとはかなり異なった東京のナイト・シーンというのも、また実在しているのだなと思い知った。

 

そして、同じアルバイト先にいた先輩がディスコに連れていってくれるということになった。一緒にアルバイトをしていた国士館大学生は何かを察したのか、用があると言って来なかったのだが、私と同じ大学に通っていて地方出身の大人しそうな大学生と、やたらとやかましい高校生が一緒に来ることになった。小田急線に乗り、新宿で降りて、歌舞伎町まで歩いて行った。この辺りには東京で一人暮らしを始めてから何度か来たことがあったが、ディスコに行くのは初めてである。初めて来たのは、近田春夫が原作で手塚眞が監督をした映画「星くず兄弟の伝説」を観るためだったのだが、当時、流行していたテレフォンクラブの料金をアピールする放送がやたらと流れていた記憶がある。アルバイト先の先輩は正社員で、すでに結婚をしていた。若い頃には竹の子族に入っていたとか、新宿のディスコによく出入りしていたとか、そういう話をよく聴いていた。私が思い描いていた六本木ウェイヴとか西麻布レッドシューズ的な東京観からはすでに思えば遠くに来てしまっていたのだが、せっかくなので連れて行ってもらうことにした。

 

今回、「新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ」を読むことによって認識したのだが、ハイエナジーとユーロビートとの切り換わりは1986年だったらしい。荻野目洋子がアンジー・ゴールドの「素敵なハイエナジー・ボーイ」を「ダンシング・ヒーロー」としてカバーし、ヒットさせた頃である。あれは、おそらく東亜会館だったのではないかと思う。何階で、どのディスコだったかは覚えていない。全米や全英のヒット・チャートには入っていない、ユーロ・ビートのような音楽が次から次へとかかり、平日の夜ではあったが、おそらく高校生ぐらいがメインだと思われる男女で、フロアは賑わっていた。曲によってお決まりの振り付けのようなものやかけ声が決っているものもあり、彼らはおお互いに向い合ったり、鏡張りになった壁に映る自分の姿を見たりしながら踊り、盛り上がっていた。DJが曲の情報や、業務連絡的な内容を時々、マイクで話す。食べ物や飲み物はバイキング形式で提供されていたような気がするのだが、あまり覚えてはいない。知っている曲ではファルコ「ロック・ミー・アマデウス」やヨーロッパ「ファイナル・カウントダウン」などがかかっていた記憶がある。連れてきてくれた先輩は新しめのユーロビートのような曲にもしっかり対応していたが、竹の子族時代のブロンディ「コール・ミー」がかかった時にはさすがにキレが全く違っていた。そして、高校生ぐらいの女性をナンパすることに成功し、それからみんなで焼き鳥店のような所にいったのだが、私達が始発で帰ろうと小田急線の新宿駅に向っている途中ではぐれた。その後、もう一度、誘われたのだが、その時には私以外に来る者がいなく、結局、二人だけで行った。この日はあまり盛り上っていなく、途中でニュー・オーダーの曲が流れたのだが反応が悪く、DJがこういう曲ももっと踊ってほしいというようなことを言っていた。かなり遅くまでディスコにはいたのだが、不完全燃焼のような状態のまま、なぜか終電で先輩の実家に行き、泊めてもらった記憶がある。翌朝、駅前の定食屋のような所で食事をした。

 

「新宿ディスコナイト 東亜会館グラフティ」のディスクガイドで取り上げられているのは、1985年までのレコードに限られている。それまでは様々な種類のレコードがかかっていたのだが、1986年からユーロビート色が強くなり、著者が思う東亜会館らしさがなくなっていったからだという。私がアルバイト先の先輩に連れられていった歌舞伎町のディスコが東亜会館だったとしても、もうそれはこの本の著者が思う東亜会館らしさが失われた後だったのだろう。

 

その後、この時のことはそれほど思い出すこともなく、当時の環境からは色々と疎遠になる要因も多くて、すっかり忘れたような状態になっていた。時が流れ、1980年代の流行を振り返るようなことを始め、インターネット時代にもなったので、当時の情報やヒット曲などはわりと集めやすくなった。それでも、どこか抜け落ちている部分がある。実はつい先日も、ストック、エイトキン&ウォーターマンのユーロビートの流れから、ハイエナジーに思いを寄せることがあり、そういえばあの「セックス・ダンス」という曲を歌っていたのは何というアーティストなのだろうと検索するとすぐに見つかる、ということがあったばかりであった。

 

「新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ」という本は、何となくこの辺りの不足している情報を埋めてくれそうな予感がした。少し時間が取れそうな日を前にした真夜中にAmazonプライムで注文すると、午後に届いた。帯には「あの日に帰ろう」と書かれている。タイトルにある東亜会館とは新宿の歌舞伎町にあるビルの名前で、現在はカラオケ店や居酒屋、ドラッグストアなどが入っているのだが、かつてはいくつものディスコがあったのだという。この本は当時の東亜会館のディスコにまつわる記憶や資料をアーカイヴしたものであり、おそらく当時、ここに通っていた人達をターゲットにして書かれたものだろう。私はこの本の著者とほぼ同年代であり、ここに書かれていることは、リアルタイムで起っていたことばかりである。しかし、その文化には属していなかったため、初めて知ることが多かったし、ぼんやりと知っていたことの辻褄が合ったりと、とても楽しむことができた。表紙には当時のディスコのメンバーズカードが載っている。当時、ディスコに通っていた人達ならばこれだけでも懐かしくなり、書店で見つけるなり手に取ってしまうのではないだろうか。しかし、私にとってはおそらく全て初めて見るものばかりであり、何の思い入れもないのである。同時代でありながら異文化、それでいて少しだけ接点もあり、それだけに知りたいという気持ちもある。そのような興味本位で注文したわけだが、実に楽しい読書体験であった。

 

この本は当時のグラフィティ的な読みもの、ディスクガイド、対談記事で構成されているのだが、対談で話されていたように、このムーヴメントは東京のある世代の間に限って起っていたものであり、これまであまり語られることがなかった。現在、このぐらいの年代の人達によって1980年代について語られた言説は数多あるが、その書き手は高校を卒業してから東京に出てきた人達であったり、東京に住んでいても東亜会館的な文化に属していない人達である場合が多かったのではないか。東亜会館のディスコの客層が若かったことには、1985年に施行された改正風俗営業法の影響があるのだという。この法律によって、営業終了時刻を早めざるをえなくなった東亜会館のディスコは、週末の営業を昼間から行うという手段に出て、これが大成功を収めた。夜遊びはできない中高生が、大挙として押し寄せたのだという。それは、私が東京で一人暮らしを始めた頃のことであった。「星くず兄弟の伝説」を観に行った週末の歌舞伎町でそのようなことが起きていたとは、当時は全く知らなかった。そして、多くの者は高校を卒業するぐらいまでにはここも卒業し、六本木などで遊ぶようになったようである。

 

そして、私が人から聞いたりなんとなく覚えていたりした当時のぼんやりした印象の数々について、この本ではしっかり解説されている。もちろん当時、現場で実際に体験していた人達のリアリティーには遠く及ぶはずもないが、これは私にとってとても嬉しいことであった。「セックス・ダンス」やビデオについての曲における下ネタ全開のかけ声、決められた振り付けのようなもの、フリーフードの内容、そして当時、どのような曲がそこでは受容されていたのかに至るまで、これはひじょうに貴重な証言だと思う。ディスクガイドには思っていた以上に多くのページが充てられていて、しかも著者による短いコメントがとても楽しい。こういう本に求めるのは楽曲の細かいデータなどではなく、その曲がどういう感じで受け入れられて、どのような記憶を残しているかという、きわめてパーソナルな思いでもあるので、そういった意味でこのディスクガイドはとても満足がいくものであった。ハイエナジーやユーロビートのようなディスコならではの曲の他に、ヒット・チャートでお馴染みの曲もたくさんかかっていたようである。同じ時代に同じ曲を聴いていたとしても、当時、東亜会館に通っていたのといないのとでは、その印象はかなり異なるのであろう。しかも、このディスクガイドのページはオールカラーなので、掲載されたレコードジャケットの写真をパラパラ見ているだけでも十分に楽しい。

 

また、当時の東亜会館には思春期ならではの悩みや不安をかかえた若者たちの居場所という側面もあったようであり、尾崎豊を支持していたのも同じ層であったという記述に目から鱗が落ちた。この本でも解説されているのだが、1985年の改正風俗営業法施行は、その数年前に発生した歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件に端を発しているという。被害者の少女たちが事件の前に踊っていたのは、東亜会館にあるディスコだったという。そして、尾崎豊のセカンドアルバム「回帰線」に収録された「ダンスホール」は、この事件をモチーフにしているというのだ。

 

2001年から、当時の東亜会館の雰囲気を再現しようというイベントが開催されているらしく、かなり盛況らしい。主催者による当時の再現性へのこだわりはひじょうに強く、フリーフードについてもなるべく当時に近づけるため、けして美味しすぎるものは出さないようにしているというのが面白い。また、スティーヴィー・ワンダー「パートタイム・ラヴァー」がある理由によって、東亜会館においては曰くつきである件、また、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」に対する印象は、当時、東亜会館に通っていた人達とそうでない人達との間ではかなり異なるのではないかと思えるところなど、ひじょうに興味深かった。1970年代にはチークタイムの定番だったといわれる、つのだひろの「メリー・ジェーン」はもうこの頃には使われていなく、数々の洋楽バラードに混じって杏里「オリビアを聴きながら」がかかっていたというのに驚いた。また、著者は当時、神保町に住んでいて、早稲田実業高校に通っていたというのも、当時の私の境遇を考えると面白い。

 

この本の良いところは、当時の東亜会館を知らない人にも分かりやすくするのではなく、あくまで当時を知っている人達のために再現性を高めようと、そこに徹底しているところで、結果的に当時、そのシーンにいなかった私のような者にとってもひじょうに面白いものになっている。やはりある時代、シーンを体験している者は、それを出来る限りリアルに記録し、後世に残すべきなのだな、ということを改めて思った。色々な意味で、とても有益な本であったし、今後も参照することがあるように思える。