ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」についての記憶。 | …

i am so disapointed.

1983年の全米ヒット・チャートでは7月2週目からずっとポリス「見つめていたい」が1位で、それは8月いっぱい続いた。北海道の学校では東京などに比べて夏休みが短くて、冬休みが長い。お盆が終わって少しすると、もう二学期が始まる。それから9月に行われる学校祭の準備に入るのであった。

 
しかし現在、当時に私が通っていた高校の行事予定表を見ると、学校祭は7月に行われていて、前期の期末考査が9月に行われているようだ。順序が全く逆になったのである。それはそうとして、私が通っていた高校は前の年の冬に、新校舎に移転していた。学級ごとに大きな御輿のような物を制作して、それに灯りを入れて街を練り歩く万灯行列なるものがなぜか恒例になっていて、旧校舎の時には校舎の前の狭いスペースを使っていたのだが、新校舎では広いグラウンドを使うことができた。とはいえ、私はこの前後の年については万灯制作に参加した記憶があるのだが、この年については全く覚えていない。あまり積極的に、もしくは全く参加していなかった可能性が考えられる。
 
私は放送部ならぬ放送局というのに所属していて、校内放送の構成をしたり原稿を書いたりということを適当にやっていた。学校祭ではレコードコンサートというのをやっていて、それに掛かりっきりだったので、学級単位で行う模擬店に参加したり、バンドの演奏を聴いたりすることが全くできなかった。レコードコンサートとは何かというと、ある教室を会場にして、リクエストに応えてレコードをかけたり、イントロ当てクイズ的な企画を行ったりするもので、それほど面白いとは思えないのだが、なぜかそこそこ人は入っていた。
 
その年は私が構成をやることになっていたので、ヒット・チャート好きの私としては、全校生徒からリクエストを募り、ちゃんと集計してランキング化し、カウントダウンで発表するのみではなく、クイズ大会化してしまおうというアイデアが思いついた。短い期間ではあったが早速、実施したところ、リクエストが次々と集まってきた。邦楽と洋楽から1曲ずつ選べるようにしていたのだが、当時は現在よりも洋楽が高校生にも浸透していて、誰しも好きな洋楽の1曲ぐらい挙げることができた。
 
邦楽では杏里「CAT’S EYE」がぶっちぎりの1位であり、企画をした私自身も驚いたほどであった。このシングルはその年の8月5日にリリースされていて、7月から放送されていたテレビアニメ「キャッツ・アイ」の主題歌であった。私は当時からアニメには興味がなく、当然、この番組も観ていないので、その主題歌も聴いたことがなかった。その時点ではまだ大ヒットという感じでもなかったので、学校内で組織票的な動きでもあったのかとも疑ったのだが、この企画に対してそこまで必死になってくれたのだとすれば、それはそれで嬉しいことだった。しかし、その後で本当にちゃんと大ヒットしてので、あれは一人一人が本当に好きでリクエストした結果だったのだろう。
 
そして、洋楽の方だが、こちらはビリー・ジョエル「あの娘にアタック」がやはりダントツで1位であった。この曲はアメリカでは7月にシングルがリリースされ、全米シングル・チャートの38位に初登場した後、少しずつ順位を上げ、9月3日付では7位にランクアップしていた。ビリー・ジョエルのシングルが全米シングル・チャートで10位以内に入るのは、1980年に自身初の1位を獲得した「ロックンロールは最高さ」以来、約3年ぶりのことであった。
 
この曲も収録したアルバム「グラス・ハウス」は大ヒットし、他に「ガラスのニューヨーク」も最高7位を記録したが、翌年には無名時代の楽曲のみが収録された「ソングズ・イン・ジ・アティック」をリリース、そこからシングル・カットされたシングル「さよならハリウッド」「シーズ・ガット・ア・ウェイ」の最高位はそれぞれ17位、23位、1982年にリリースされたアルバム「ナイロン・カーテン」ではよりシリアスな題材を扱い、音楽的にもやや実験的なところがあった。ビリー・ジョエルは日本でもひじょうに人気があり、このアルバム発売前にFMラジオで小林克也による特集番組も放送されていたような気がする。当時、ビリー・ジョエル版の「サージェント・ペパーズなどとも言われていたが、私はその「サージェント・ペパーズ」自体をまだ聴いたことがなかったので、よく意味が分からなかった。
 
結論からいうと、その路線変更は失敗であった。スタジオ・アルバムでは1977年の「ストレンジャー」が2位、続く「ニューヨーク52番街」「グラス・ハウス」が共に1位だったのに対し、このアルバムの最高位は7位で、シングル・カットされた「プレッシャー」「アレンタウン」「グッドナイト・サイゴン」はそれぞれ20位、17位、56位であった。また、批評家からもあまり良い評価をされていなかった記憶がある。私はかなり好きだったし、日本の音楽ファンにもわりと受けていたような気がするのだが、現実的にはそんな感じであった。
 
このアルバムから最初にシングルとしてリリースされた「プレッシャー」は、精神的なストレス状態について歌われているのだが、当時、伝説の歌謡曲批評誌「よい子の歌謡曲」であるライターがこの曲に言及し、日本でいえばマッチ(近藤真彦)が「抑圧だー!」などと歌っているようなものなのだからアメリカはすごい、というようなことを書いていたような気がする。日本ではその6年後に森高千里がアルバム「見て」の収録曲として「ストレス」を発表した。
 
夏の終わりの夕暮れ近く、リクエストの集計を終えた私は、その結果について独り言のようについて呟いた。すると、「さすがBJ」と甲高い声が部室に響いた。「BJ」とはビリー・ジョエルのイニシャルであり、FM雑誌か何かで私も見たことがあったが、この眼鏡をかけて色白で、普段は「マクロス」とかいうアニメだかなんだかよく分からない歌を甲高い声で歌っている者がそう言ったので、私は無言でその後の作業を続けた。
 
レコードコンサートの司会は、アナウンス課の1年の女子が行った。モーニング娘。’18でいうと横山玲奈のようなキャラクターで、台本をちゃんとこなしながら臨機応変でアドリブも入れられる優れたタイプであった。
 
ビリー・ジョエルの「イノセント・マン」はシリアスすぎて商業的に失敗した「ナイロン・カーテン」から1年も経たずにリリースされ、その内容は実にポップなものであった。ビリー・ジョエルが若かりし頃に親しんだ音楽からの影響が反映していて、特に最初のシングルとしてリリースされた「あの娘にアタック」については、モータウンからの強い影響が指摘されていた。モータウンはアメリカのレコードレーベルで、1960年代にヒット曲を連発したということであった。中でもダイアナ・ロス&シュープリームスは何曲ものNo.1ヒットを記録しているということであった。
 
この年、その中からフィル・コリンズが「恋はあせらず」、ホリーズが「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」をカバーし、ヒットさせていた。また、前年にリリースされ、全米1位を記録したダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」には、モータウンのリズムからの影響が指摘されていた。日本ではこの年の8月21日にリリースされたサザンオールスターズの原由子によるソロ・シングル「恋は、ご多忙申し上げます」がモータウン調のリズムを取り入れ、オリコン最高5位のヒットを記録した。
 
ダイアナ・ロスといえば1980年にディスコ・ヒットの「アップサイド・ダウン」や、1981年にはソロ・デビュー前のライオネル・リッチーとデュエットした「エンドレス・ラブ」を全米No.1にし、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーのカバーである「恋はくせもの」は、私が高校受験の日の朝に何度も聴いて気合いを入れていた松本伊代「ラブ・ミー・テンダー」の元ネタなのではないかという気がしていた。ところで、当時は日本語だとダイアナ・ロス&シュープリームスと表記されていたような気がするのだが、いつの間にかスプリームスになっていた。しかし最近、Apple Musicで検索してみたところ、シュープリームスとなっているのだが、Spotifyの方はスプリームスである。そして、Amazonではシュープリームスである。
 
それはそうとして、このポップでキャッチーな「あの娘にアタック」は当時の音楽ファンに大いに受けて、9月24日付の全米シングル・チャートで1位に輝くのであった。次にシングル・カットされた「アップタウン・ガール」は1960年代に活躍したコーラス・グループ、フォー・シーズンズの影響を受けているといわれていたが、これも全米シングル・チャートで3位のヒット、イギリスでは初のNO.1ヒットとなった。このアルバムからは計6曲がシングル・カットされ、その全てが全米シングル・チャートの30位以内にランクインした。
 
アルバム「イノセント・マン」は8月8日にリリースされたらしく、私もわりとすぐに買ったはずである。この頃はよく聴きそうなレコードは劣化を避けるためにすぐカセットテープに録音し、それで聴くというスタイルを取っていた。このカセットはよく聴いていた記憶があるのだが、レコードを買った時の状況を全く覚えていない。その前の週には同じ学年の女子生徒と札幌の真駒内屋外競技場でRCサクセションとサザンオールスターズが競演した「Super Jam ‘83」に行ったりしていたのだが、その頃の記憶に「イノセント・マン」が全くない。札幌のパルコを出た時にカルチャー・クラブ「ポイズン・マインド」が聴こえたことは覚えているのだが。
 
その翌年、竹の子族出身のアイドル歌手、竹宏治が本名の清水宏次朗に改名し、作詞・秋元康、作曲・林哲司による「ビリー・ジョエルは似合わない」をリリースした。歌詞には「いつか僕を想い出したら ラジオにでもリクエストして アップタウン・ガール」という箇所がある。
 
「あの娘にアタック」のビデオは1960年代の人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」をモチーフにしていつらしい。ダイアナ・ロス&シュープリームスの動画を検索すると、この番組に出演した時のものが表示されることがある。「愛はどこへ行ったの」で初めて全米ヒット・チャートの1位に輝いたのは1964年8月22日、全く同じ日ににやはりモータウンから、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」がリリースされた。
 
 
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