好きなカルチャー・クラブの10(+1)曲。 | …

i am so disapointed.

先日、ツイッターのタイムラインでカルチャー・クラブのことが少しだけ話題になっていたので、今回はそれについて書きたい。まず、現在、カルチャー・クラブといえば1980年代にヒット曲を連発したイギリスのポップ・グループを思いうかべる人が多いと思うのだが、以前は主婦や会社員などを対象にした習いごと教室的なものをカッコよくいったが、それもわりとダサめになってきたようなイメージがあった。そのため、「宝島」かなにかでロンドンのナイトクラブで流行とかいうことで、カルチャー・クラブについての記事を見たときにも、なかなかカッコ悪いグループ名だなと思ったものである。しかし、少しすると、すでにカルチャー・クラブといえばこのバンドのというぐらいに、すっかりそのイメージが浸透していた。

 

男性だが女性のような化粧をしたボーカルのボーイ・ジョージが美しいと評判になり、また、そのボーカルも男性か女性か即座には判断しかねるようなものであった。その両性具有的なイメージ、また、他のメンバーも人種混合的であり、文化のるつぼ的な意味合いでのカルチャー・クラブというネーミングは、このバンドに相応しいようにも思えた。

 

1982年に旭川エスタという商業施設がオープン(2012年に閉店)したのだが、土曜日の放課後に時間を潰していると、東神楽町から汽車で通っている2人の女生徒が雑誌の立ち読みをしていた。オフコースや山本達彦などを好んで聴いているようなタイプだったが、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は気に入っていると言っていた。音楽雑誌に載ったボーイ・ジョージのグラビアを見ているようで、「綺麗だよねー」とか「男に見えないよねー」とか言っていた。「君は完璧さ」が全英チャートで1位に輝き、それから全米チャートにもランクインすると、順位をどんどん上げていって、最終的には最高2位を記録した。そのときの1位はマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」である。ほぼ同時期に、デュラン・デュランがアメリカでのはじめての大きなヒットとなった「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」をランクインさせている。

 

この前の年にイギリスのシンセ・ポップ・バンド、ヒューマン・リーグ「愛の残り火」が全米1位になったが、当時、洋楽を意識的に聴きはじめてからそれほど経っていなかった私にはそれまで聴いたことがなかったような音楽であり、それをどのように楽しめばいいのかよく分からなかった。その後、すぐに大好きになるのだが、それからイギリスの新しいバンドやアーティストが数多く全米ヒット・チャートにランクインするようになった。この現象は第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンなどと呼ばれるのだが、1981年に開局した音楽専門のケーブルテレビ局、MTVの影響によるものだといわれていた。イギリスのバンドやアーティストたちによるインパクトのある映像と音楽とが、アメリカの若者たちの心をもつかんだようであった。

 

全米チャートに入ると、東京のナイトクラブやカフェバーには縁のない旭川の男子公立高校生であった私でも、「ベストヒットUSA」などで「君は完璧さ」のビデオを観ることができるようになった。当初、「冷たくしないで」という邦題であったこの曲は、いつのまにかこう呼ばれるようになっていた。

 

DO YOU REALLY WANT TO HURT ME?

 

ポップ・ミュージック史に残る名バラードであり、1980年代のポップスを象徴する1曲だと思う。ポップ・ミュージックが社会に発する重要なメッセージとして、多様性の肯定があると思うのだが、カルチャー・クラブというバンドのキャラクター、そして、ソウル・ミュージック、レゲエ、ラテン音楽などの影響を取り入れたその音楽性は、まさにそれを体現しているように思える。

 

グラビアではとにかく美しいイメージがあったボーイ・ジョージだが、ビデオで観ると体が大きい。ひじょうに悲しい恋の歌を歌っているのだが、周囲の人たちに奇異の目で見られたり、捕らえられたりしている。一般社会における異形の存在を体現していて、それが余計に哀感を増幅するようである。しかし、自分らしく歌い踊り続け、それ自体が多様性の肯定というメッセージになっている。音楽性としてはリズムにレゲエからの影響が感じられ、ボーイ・ジョージのユニークなボーカルも素晴らしい。

 

 

TIME (CLOCK OF THE HEART)

 

イギリスにおいて「君は完璧さ」は「ホワイト・ボーイ」「アイム・アフレイド・オブ・ミー~あしたのボクは?」に続く3枚目のシングルであり、はじめてのヒットにしてNo.1に輝いていた。そして、次にはデビュー・アルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」に未収録の「タイム」をシングルとしてリリースし、最高3位を記録した。日本ではサントリーホットウィスキーのCMに使われた「ミステリー・ボーイ」がシングルでリリースされた他、アルバムにも収録され、そのタイトルにもなっていた。

 

「君は完璧さ」と似た路線であり、やはり哀愁が漂うメロディーとボーイ・ジョージのボーカルが魅力的である。「君は完璧さ」よりもこちらを高く評価するファンも少なくはない。アメリカでは「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」にも収録され、そこからのシングル・カットということで、「君は完璧さ」に続いて最高2位を記録した。そのときの1位はアイリーン・キャラ「フラッシュダンス...ホワット・ア・フィーリング」であった。

 

「タイム」は日本においてはシングルとしてリリースされた他、セカンドアルバム「カラー・バイ・ナンバーズ」にも収録された。

 

 

I'LL TUMBLE 4 YA

 

「君は完璧さ」「タイム」のヒットは、イギリスにおいては1982年のことであった。そして、1983年の4月にはニュー・シングル「ポイズン・マインド」がリリースされるのだが、アメリカではこの2曲が1983年になってからヒットしたため、まだまだデビュー・アルバムを売るチャンスがあると見られていたのだろうか。次のシングルとして「ポイズン・マインド」ではなく、「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」から「アイル・タンブル・4・ヤ! 〜君のためなら」がシングル・カットされた。

 

イギリスではシングル・カットされていないこの曲は、前2作とは打って変わって、このバンドの持ち味の1つでもあるラテン的な要素もある軽快な曲であった。全米チャートで最高9位を記録するのだが、当時、デビュー・アルバムから3曲を全米トップ10入りさせたのがビートルズ以来ということでも話題になった。

 

 

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CHURCH OF THE POISON MIND

 

イギリスでは1983年4月にリリースされ、最高2位を記録した。そのときの1位はデヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」である。

 

この年の夏休み、札幌の真駒内屋外競技場で「Super Jam '83」というイベントが開催された。当時、大人気だったRCサクセションとサザンオールスターズが対バンをするという注目のイベントであり、私は一度チケットが買えずにあきらめていたのだが、スポンサーであるそうご電器の関係者からチケットを入手することができ、同じ学年の少し悪そうな女生徒と一緒に行くことになった。「ポイズン・マインド」はすでにイギリスではヒットしていたが、アメリカでは「アイル・タンブル・4・ヤ! 〜君のためなら」がヒット中で、まだリリースされていなかった。

 

札幌市内のどこかで確かカレーライスを食べた後、パルコのブティックのような店を見るのに付き合い、ピアスを空けるとか空けないとかいろいろ言っていたと思う。外に出ると、街に「ポイズン・マインド」が流れていた。まだアメリカでヒットしていない曲が流れているなんてさすが札幌は都会だと思ったのと、あのハーモニカの音色と軽快な曲調に、とても自由になれたような気がしたのであった。

 

「ポイズン・マインド」は10月になってやっとアメリカでリリースされ、最高10位を記録した。この曲から女性ボーカルのヘレン・テリーが参加し、その力強い歌声はカルチャー・クラブの魅力の1つとなるのであった。

 

 

KARMA CAMELEON

 

カルチャー・クラブにとって最大のヒット曲である「カーマは気まぐれ」である。イギリスでは1983年の9月、アメリカでは12月にリリースされ、いずれも1位に輝いている。

 

セカンドアルバム「カラー・バイ・ナンバーズ」のオープニングを飾るこの曲はひじょうにキャッチーな魅力を持っているのだが、当時の私はそれまでのカルチャー・クラブにしてはちょっと単純すぎてつまらないかな、とも思っていた。

 

この年、私は高校の修学旅行で京都や奈良に行ったのだが、最も楽しみにしていたのは帰りに数時間だけある東京での自由時間であった。オープンしたばかりの六本木ウェイヴに行き、何枚かの輸入盤レコードを買ったのだが、そのうちの1枚が「カラー・バイ・ナンバーズ」であった。ジャケットにカタカナで「ボーイ」と書かれているのだが、いわゆる伸ばし棒の「-」が縦書きなのにもかかわらず横になっているのが微笑ましかった。

 

このアルバムは収録曲が本当に粒ぞろいで、とても気に入っていた。ソウル・ミュージックからの影響がより強くなり、ブルーアイド・ソウル、ソフィスティ・ポップのアルバムとしてもじゅうぶんに楽しめるような作品であった。カルチャー・クラブでどれか1枚となった場合には、間違いなくこれであろう。しかし、「ミュージック・マガジン」の中村とうようはマトモになってつまらなくなったと評した上で、「文化倶楽部がホンキでカルチャーしちゃったんじゃ冗談からコマが出てコマっちゃうよ」ととうよう節全開で10点満点中4点を献上している。なお、同じ号ではドアーズのライブ盤「アライヴ・シー・クライド」には「カルチャー・クラブのあとで聞いたら、あんまりダサくて、ますます嫌いになった」で0点、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ「愉快にライフボード・パーティー」には「これだけカラフルで変化に富み、聞きどころたっぷりなレコードは、あまりないだろう」と10点をつけている。

 

アルバム・チャートでは全英1位、全米2位を記録している。

 

 

VICTIMS

 

1983年11月に「カラー・バイ・ナンバーズ」からシングル・カットされ、全英チャートで最高3位を記録した本格的なバラード曲である。ボーイ・ジョージのボーカルの魅力がじゅうぶんに味わえる曲なのだが、シングルとしてはあまりにも地味ではないかという気もする。それでもこれだけヒットしてしまうのだから、当時のカルチャー・クラブの人気は本当にすごかった。ちなみに、アメリカではシングル・カットされていない。

 

ゲイであるボーイ・ジョージはバンド・メンバーのジョン・モスと恋人関係にあったのだが、それを公にしてはいなかった。この曲はその関係性について歌われたものだという。

 

この翌年にイギリスではザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」やシャーデー「ダイヤモンド・ライフ」などがヒットし、ソフィスティ・ポップの時代となるのだが、この曲のヒットなどは間違いなくそれらと地続きになっているような気がする。

 

 

MISS ME BLIND

 

アメリカで「カラー・バイ・ナンバーズ」から「カーマは気まぐれ」の次にシングル・カットされたのは「ヴィクティムズ~いつも二人で」ではなく、よりポップでダンサブルな「ミス・ミー」で、全米チャートで最高5位を記録している。

 

バック・コーラスにR&Bシンガーのジャーメイン・スチュワートが参加し、ビルボードのソウル・チャートでも5位まで上っている。ビデオは日本を舞台にしていて、いろいろと間違えたオリエンタリズムが全開なのだが、それもこのバンドのポップなイメージに似合っているような気がする。

 

 

IT'S A MIRACLE

 

「イッツ・ア・ミラクル」は「カラー・バイ・ナンバーズ」からの最後のシングル・カットで、全英最高4位、全米では最高13位で、連続トップ10入りのがここで途絶えた。

 

アルバムでは「カーマは気まぐれ」に続くA面2曲目に収録され、キュートな魅力を放っていたのだが、シングルとしてはやや弱かったかもしれない。「dreams are made of emotion(夢は感情でできている)」という歌詞がとても好きだった。ビデオではまたしても芸者風の女性がパソコンを操作するという誤ったオリエンタリズムをはじめ、なかなか楽しいものになっているのだが、過去のビデオからの様々なシーンも登場し、ひとまずの区切り的な印象も受ける。

 

 

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THE WAR SONG

 

1984年10月にアルバム「ウェイキング・アップ・ウィズ・ハウス・オン・ファイアー」からの先行シングルとしてリリースされたのが「戦争のうた」であり、全英チャートでは2位の大ヒットとなったが、全米チャートでは17位に終わった。

 

このアルバムはレーベルからかなり急かされるような状態で制作されたらしく、メンバーも出来には満足していなかったようなのだが、評価も高くはなく、セールス面でも苦戦した。

 

「戦争のうた」は反戦ソングであり、歌詞では日本語で「センソウハンタイ」と歌われる部分もある。

 

このアルバムからは他にイギリスでは「メダル・ソング」、アメリカでは「ミステイク・No.3」がシングル・カットされたが、いずれも大きなヒットにはならなかった。

 

 

 

この年、カルチャー・クラブの楽曲は映画「エレクトリック・ドリーム」のサウンドトラックにも収録され、「ラヴ・イズ・ラヴ」は日本ではシングル・カットもされた。美しいバラードで、最新アルバムの曲よりもこっちの方がよっぽど良いじゃないか、と思ったのを覚えている。



 


この年の年末、ボーイ・ジョージとジョン・モスはバンド・エイドによるチャリティー・シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」のレコーディングに参加した。

 

MOVE AWAY

 

プロデューサーを変えて制作された4枚目のアルバム「フロム・ラグジャリー・トゥ・ハート・エイク」からの先行シングルとして1986年3月にリリースされ、全英チャート7位、全米チャート12位を記録した。

 

当時におけるコンテンポラリーなポップスに寄せたサウンドになっているが、かつての作品に見られた無邪気で自由な感覚は感じられない。

 

この後、ボーイ・ジョージはドラッグ所持で逮捕され、カルチャー・クラブは活動停止を余儀なくされた。

 

 

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この後、長い沈黙を破って活動を再開し、1998年にリリースしたシングル「愛をください」が全英4位を記録した。それからまた活動を停止したり、再開したりしたりしているようである。

 

実質的な全盛期といえる時期はひじょうに短いが、そのポップ・ミュージック界に及ぼした影響はひじょうに大きいといえる。そのイメージと一時的にヒットしすぎたこともあるのか、あまりシリアスに評価されていないような気もするのだが、それもまたカルチャー・クラブらしいのかもしれない。