RCサクセションの思い出。 | …

i am so disappointed.

昨日、ヒューマントラストシネマ渋谷で観た「ラスト・ワルツ」公開40周年記念上映は最高だったのだが、劇中でザ・バンドと豪華ゲスト陣とが演奏する「アイ・シャル・ビー・リリースト」を聴きながら、私はこの曲の日本語カヴァーのことを思い出していた。

 
それは1988年の年末にリリースされたRCサクセションのライヴ・アルバム「コブラの悩み」の1曲目に収録されていた。この年、RCサクセションは「MARVY」「COVERS」「コブラの悩み」と3枚のアルバムをリリースした。2枚目の「カバーズ」は所属していた東芝EMIからではなく、キティレコードから発売され、オリコンアルバムランキングの1位を記録した。
 
「COVERS」はタイトルが示すようにカバー作品ばかりを集めたアルバムだが、その中にいくつか原子力発電所に言及した曲があった。東芝EMIの親会社は原子力発電所のメーカーでもあり、それでケチがついたと言われている。東芝EMIが広告で公表した理由は「素晴らしすぎて発売できません」というものであった。
 
「コブラの悩み」はこの「COVERS」事件の余波の中でリリースされた作品だが、こちらは東芝EMIからリリースされた。「頭の悪い奴らが圧力をかけてくる 呆れてものも言えねえ またしてもものが言えない」「いつの日にか 自由に歌えるさ」という歌詞が、日本語詞を書いた忌野清志郎の当時の心境をあらわしているようだ。
 
翌日、5月2日は忌野清志郎の命日であった。ということで、私が特に熱心に聴いていた1980年代のRCサクセションの思い出などを書いてみたい。
 
流行歌が大好きだった私は1980年に「オリコン全国ヒット速報」という刊行物の存在を知った。「オリコン新聞」などとも呼ばれていて、レコード店で100円で売られていた。最新のヒット・チャートやアーティストのニュースなどが載っていたのだが、RCサクセションの名前もそれで何度か目にしているうちに知ったのだと思う。
 
1976年にリリースされたが廃盤になっていたアルバム「シングル・マン」の再発を懇願する活動を音楽評論家の吉見佑子さんが行っていたり、シングル「ボスしけてるぜ!」が銀座などの歓楽街の有線放送で放送禁止になったニュースなどを覚えている。「ボスしけてるぜ!」は「少しだけでもアップね ぼくの給料」などの歌詞が問題になったようだ。
 
1980年といえばテクノ、アイドル、漫才がブームになり、時代の空気がライトでポップになっていくのが実感できた。RCサクセションのヴォーカリスト、忌野清志郎がライヴでよく言っているという「愛しあってるかい」というセリフは、誰かは覚えていないのだが、当時の人気漫才師がテレビ言っているのではじめて知ったような気がする。また、1981年の元旦からはじまった「ビートたけしのオールナイトニッポン」で、RCサクセションのシングル「トランジスタ・ラジオ」がかかっていたのを覚えている。
 

 

この頃にはRCサクセションの人気はかなり高まっていて、「宝島」などの雑誌で大きく取り上げられる他、NHKで糸井重里が司会をしていた若者向け番組「YOU」でライヴが放送されるなどしていた。1982年には忌野清志郎がイエロー・マジック・オーケストラの坂本龍一とのデュオでシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリースし、資生堂のテレビCMで流れていた効果もあって、オリコン1位の大ヒットとなった。
 

 

同時期にサザンオールスターズが「チャコの海岸物語」で久々のシングルでのヒットを記録している(最高2位。トップ10以内のヒットは1979年リリースの「C調言葉に御用心」以来)。また、山下達郎「FOR YOU」、大滝詠一、佐野元春、杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」がリリースされ、ヒットしたのもこの頃である。
 
この年の春、私は旭川の高校に入学し、松本伊代や早見優のファンでありながら、佐野元春や山下達郎の音楽を好んで聴いていた。この時点でRCサクセションのレコードは1枚も買っていなかったのだが、好ましくは思っていたし、テレビで放送されたライヴは録画して何度も観たりしていた。高校ではやはりいまでいうところのシティ・ポップ系が好きな女子と親しめになり、家を行き来してレコードを聴いたり自転車で旭山動物園に行ったりするようになった。
 
その夏、RCサクセションのシングルぐる「サマー・ツアー」がトップ10ヒットとなり、テレビの歌番組にも出演した。人気番組に出たからといってお行儀よくしているわけはなく、そのユーモラスなふてぶてしさが痛快であった。

 

 

夏休みが終わって秋になり、校庭で学校祭で使う行灯をつくっていた。誰かが持ってきたラジカセからは、その年に開局したばかりのエフエム北海道が流れていた。北海道にもついに民放のFM局が出来たと喜んだものである。それまでは「FM STATION」などを買っても番組表がNHK-FMのところしか使い途がなく、どこか損をしているような気分になっていた。
 
他のクラスのどこか陰のある女子が行灯がやって来て、また私に最近ブルーな気分が続いていることや他校の年上の男子や大学生と遊んでいる話をして、神楽岡駅から汽車で当麻町に帰って行った。彼女は周りとあまりうまくやれていないようで、RCサクセションが好きだった。
 
1983年の夏、札幌の真駒内屋外競技場でRCサクセションとサザンオールスターズが対バン的なライヴを行うことが発表された。当時、人気絶頂の2大バンドである。当時、私には買わなければいけないレコードや本も多く、すぐにチケットを買うことができなかった。やっとお金をかき集めてプレイガイドも兼ねたミュージックショップ国原に行ったときには、すでに売り切れた後であった。その年にリリースされたRCサクセション「OK」とサザンオールスターズ「綺麗」はそれでも買って、いまでもお気に入りのアルバムである。
 
「OK」からの先行シングル「Oh! BABY」は、「ぼくをダメにしたいなら ある朝きみがいなくなればいい」と歌われる、美しいバラードであった。高校2年になってもあのどこか陰のある女子は別々のクラスで、基本的に私のことはバカにしていたのだが、移転して新校舎となった学校から、テスト勉強を一緒にするために自転車の後に乗せて私の家まで行った。
 
「Oh! BABY」を一緒に聴いたのだが、彼女はこんな軟弱な男は嫌だと言った。夕暮れが私の部屋にも影を落とし、心の中ではブルーズが加速していた。
 
RCサクセションとサザンオールスターズが競演する「Super Jam ‘83」だが、スポンサーのそうご電器に関係者がいるという友人からチケットが買えることになった。そうと決まれば楽しみで仕方がなく、「OK」と「綺麗」を何度も聴いた。レコードがすり減るのが嫌なので、カセットテープに録音したものを繰り返し聴いた。
 
札幌にはRCサクセションが好きな彼女と一緒に行くことになった。彼女は他校のカッコいい男子や大学生と遊んでいるので、私のような冴えない男と、しかも札幌のような都会を歩いているのを見られたら恥ずかしいから、知り合いに会ったら弟ということにすつようにと、強く命令された。
 
早朝に自宅から自転車で旭川駅に行くと、彼女は約束の時間通りに来て、ニュー・ウェイヴな服装ですごくカッコよかった。そして、かなり眠そうで、いつものように悪態をついてきたのだが、札幌行きの汽車に乗ると、大学生にナンパされた話などを延々としていた。オーティス・レディングとかサム・クックといったソウル・シンガーの名前が彼女の話にはよく出てきたが、この時点で私は聴いたことがなかった。
 
札幌に着き、どこかでカレーライスを食べたりパルコを見たりして、それから会場の真駒内屋外競技場に行った。RCサクセションの忌野清志郎や仲井戸麗市のファッションをコピーしたようなファンの姿も見られた。彼女は現地で遊んでいる系の仲間を見つけ、そっちに行ってしまったため、私は1人でライヴを観ることになった。オープニングアクトの2組の演奏は明るいうちに行われ、夕方ぐらいからサザンオールスターズのライブがはじまった。最新アルバム「綺麗」の収録曲とこれまでの代表曲とを混合させたセットリストで、かなり楽しめた。
 
このライヴに先がけて、エフエム北海道で事前番組のようなものも放送されていたのだが、RCサクセションの忌野清志郎、仲井戸麗市はサザンオールスターズのことをフォークバンドとかぶっ潰してやるとかいろいろ好き勝手なことを言っていた。しかし、程よく暗くなったステージに登場した忌野清志郎は、サザンオールスターズを讃え、ここからはRCサクセションの圧巻のステージとなった。
 
このとき、サザンオールスターズに桑田佳祐はRCサクセションのステージを観て、泣いてしまったと発言している。アンコールではRCサクセションとサザンオールスターズのメンバーが入り乱れての「雨上がりの夜空に」が演奏され、大いに盛り上がった。この後、親交を深めていく忌野清志郎と桑田佳祐にとっても、このライヴはひじょうに重要なものだったようである。
 
翌年、RCサクセションはレーベルを移籍するのだが、これにともない、バンドの意に反してコンピレーション・アルバムが発売されるという事態が起こった。バンドはファンに不買を呼びかけていたのだが、私は持っていなかった曲が入っていたこともあり、そのうちの1枚である「EPLP-2」は買ってしまった。なぜか紙製のパンティーが付いているという、よく分からないものであった。
 
その夏、RCサクセションは東芝EMIに移籍して最初のシングルである「不思議」、そして秋にはアルバム「FEEL SO BAD」がリリースされた。スターリンのコピーをやっていた友人のライヴに1曲だけゲスト出演することになっていて、そのリハーサルに行くときに「FEEL SO BAD」は買ったような気がする。このアルバムは大好きなのだが、アナログではB面の1曲目に収録された「NEW YORK SNOW(君を抱きたい)」という曲が、まったく代表曲としてあげられることはないが、個人的にはすごく好きである。
 
この頃、友人から「ハード・フォーク・サクセション」というレコードを借りた。RCサクセションがフォーク・バンドとして活動していた頃の曲を集めたコンピレーション・アルバムである。「本当のことなんか言えない 言えば殺される」と歌われる「言論の自由」、「キミ かわいいよね でもそれだけだね」と歌われる「キミかわいいね」、「誰もやさしくなんかない だからせめて汚ないまねはやめようじゃないか」と歌われる「やさしさ」など、その批評性とポップさに衝撃を受けた。
 

 

翌年の春、私は高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめるが、すぐにシングル「すべてはALRUGHT (YA BABY)」がリリースされた。渋谷の西武劇場(後のパルコ劇場)で行われたライヴには、結成時のメンバーであった三浦友和もゲスト出演したという。その年の夏に西武球場でライヴがあったのだが、その受け付けを深夜のテレビでやっていた。私は何枚もの10円硬貨を握りしめて真夜中の巣鴨駅まで行き、電話ボックスからつながるまで何度もかけていた。当時の電話ボックスには風俗の小さなチラシが無断でたくさん貼られていて、私が何度も電話をかけているあいだ、そのチラシを貼る人が外でじれったそうに待っていたのを覚えている。
 
西武球場でのライヴでは、仲井戸麗市が発売前のソロ・アルバム「THE仲井戸麗市BOOK」から「ONE NITE BLUES」を披露した。RCサクセションとはまた違った、よりブルージィーな音楽性と「大磯まで逃げられりゃ 逃げきれるはずなのに 久里浜年少 ONE NITE BLUES」というような歌詞にシビれた。「年少」という単語は現在の若者にも通じるのかどうか分からないが、少年鑑別所のことである。
 
年末にリリースされたアルバム「ハートのエース」は、カセットテープで買った。当時、住んでいた大橋荘は壁がひじょうに薄いため、ステレオの持ち込みが禁止されていた。レコードプレイヤーは実家から持ってきていたが、ラジカセにつないで小さな音で聴いていた。そして、その年に私は生まれてはじめてウォークマンを買っていたので、当時の新譜にはカセットテープで買ったものが多い。翌年、大学に入学するとちゃんとステレオが聴ける部屋に引っ越せたし、町田か本厚木の丸井ではじめてのCDプレイヤーも買った。最初に買ったCDはザ・スタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」だったが、次にはっぴいえんどの最初の2枚が1枚のCDに入ったものと、「ハートのエース」のCDを本厚木のミロードの中にあったレコード店で買った。
 
年末には日本武道館のライヴに行き、翌年は忌野清志郎がロンドンでイアン・デューリーのバック・バンド、ブロックヘッズのメンバーとレコーディングした「レザー・シャープ」をリリースした。このツアーでは、中野サンプラザと渋谷公会堂の2回観に行った。次に中野サンプラザでライヴを観たのはそれから29年後、2016年のNegiccoであった。
 
1988年の春、実家に帰っているときに2枚組のアルバム「MARVY」が発売され、CDは1枚だったのだが、当時、実家にはまだCDプレイヤーが無かったのでLPの方を買った。そして、夏に「COVERS」が出たときにも実家に帰っていて、留萌の祖母の家に行ったときにお小遣いをもらったので、そのお金で買ったのだった。妹はレベッカの「OLIVE」を買っていた。年末にリリースされた「コブラの悩み」は大学からの帰りに本厚木のすみやで買ったはずである。
 

 

1989年はRCサクセションに目立った動きはなかったが、忌野清志郎によく似たZERRYが率いるタイマーズが活動し、「夜のヒットスタジオ」の生放送でリハーサルと違う曲(しかも放送禁止用語が歌詞に入っていた)をやったり、モンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」をカヴァーしてオリコン2位の大ヒットを記録したりしていた。
 

 

その後、RCサクセションからはメンバーの脱退があり、1990年秋にリリースされたアルバム「Baby A Go Go」を最後に活動を休止した。このアルバムは六本木ウェイヴで買ったのだが、女性スタッフが私が買ったCDを見て、「RC出たんだ」「かけたいよね」などと話していた。何となくおしゃれな洋楽ばかりがいつも推されているイメージがあった六本木ウェイヴだったが、スタッフには普通にRCサクセションが好きな女性などもいるのだ、とよく分からない安心をした。翌年から実際に六本木ウェイヴで契約社員として働くようになるのだが、3階のポップス売場に配属になったとき、最初にカウンターを仕切っていた女性正社員はTHE ALFEEの大ファンであった。
 
「Baby A Go Go」からの先行シングルである「I LIKE YOU」を、昨年、忌野清志郎のファンだという女優、のんがカヴァーした。もうじきリリースされるアルバム「スーパーヒーローズ」には矢野顕子が提供した「わたしはベイベー」という曲が収録されるのだが、それは忌野清志郎へのオマージュにもなっているという。
 
 
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