さようなら、モリッシー。 | …

i am so disappointed.

ザ・スミスが最も好きなアーティストで、「ザ・クイーン・イズ・デッド」をこれまでに海外のアーティストによって発表されたアルバムの中で最も優れていると思っている。その魅力のうちのわりと大きな割合を占めるのが、モリッシーによるユーモアとウィットにとんだユニークな歌詞、ボーカル、ダンスであろう。その評価に変わりはないのだが、モリッシーという人物についてはいまや完全に残念な存在に成り果ててしまい、その影響力を考えるならば批判されてしかるべきとしか思えない。

 

モリッシーの思想に潜む排外主義的な傾向については以前から指摘されていたことであり、いまさら驚くべきことでもないのだが、今回、「モリッシー・セントラル」という自身で新しく立ち上げたサイトにおいて、レイシズムという概念を擁護すると取られても仕方がない発言をあえてしたり、ムスリムであるロンドン市長、サディク・カーンの英語の発音をからかい、バカにしているようなインタヴューをわざわざ発表しているということで、メッセージはより明瞭になったという印象がある。

 

たとえば日本で暮らす中国人や韓国人の片言の日本語をからかって真似をし、バカにしている品性下劣なごく一部の日本人とほぼ変わらない精神性のことをやっているわけで、擁護の余地もなければ、むしろ徹底的に批判されてしかるべきであろう。

 

私はザ・スミスやモリッシーの音楽をそれなりに、というかかなり好んで聴いてきた者ではあるが、擁護しようという気持ちもなければ、特に熱心なファンであれば抱くかもしれない、裏切られたというような感情もまったく無い。アイドルでもアーティストでも、言うなれば一般的な恋愛でもそうだが、好きになったのは自分自身であり、その責任は完全に好きになった側にある、と考える。勝手に好きになって、自分に都合よくイメージをふくらませ、それを好きでいる自分に陶酔する。そういうものでしかないような気がする。これが分からなくなるようであれば、それはもう依存であり、かなり危険なのではないだろうか。

 

排外主義的な考え方そのものや、たとえそのような考えを持っていたとしても、おそらくその影響力が分かった上で、あえて公表するというところに不快感や残念な思いはあるものの、モリッシーだからというような特別な怒りもなければ喪失感もない。これでザ・スミスやモリッシーの音楽をもう聴かないのかというと、おそらくこれからも聴くのであろう。しかし、モリッシーについては、過去に優れた作品を残し、いまはダメになってしまった人、という認識になるのであろう。そのジョークでは、もう笑えない。