日常がまるで劇場のようだ。それは私の行動や言動が、あたかも小説やドラマを模倣しているようだからだろう。トリックスター的にいわゆる常識を嘲笑っているような訳もなく、寧ろ奈落のクイズマスター並みに必死であり、藁をもつかむ思いであるというのが正直なところである。そして、私の場合、その藁にあたるのがそういうものだったということであろう。
そうした方が周りの人達が動いてくれやすかったり、物事が思ったように進みがちである。これは時々、「魔法をかける」などと言い換えられることもある。
もちろん私にそのような能力はなく、もしもあったとするならば、もうとっくにやっておきたかったことは次々と実現し、たいして欲の無い毎日を送っていたことであろう。
ところが現在の私は「暦の上ではディセンバー」ばりに、「果てしなく ラララ 貪欲 貪欲」である。
これをみっともないとは、まったく思わない。なぜなら、現在、私が人のあり方として最も美しく、正しいと思っている「幻想の普通少女」は、その「欲望」ゆえに魅力をはなっているからである。
「幻想の普通少女」とはいっても、文字通りに「普通」な訳ではなく、寧ろひじょうに有り難い。それゆえに「幻想の」なのである、もちろん。
日常に劇場を持ち込むと、なぜ多くの人々に影響をあたえがちか。それはおそらく、日常にそのようなものを求めている人は、意外にも多いからであろう。
たとえば優秀なナンパ師は、これを上手く利用している。
それはそうとして、私の場合は趣味嗜好だとか暇つぶしではなく、必要に迫られてここに落ち着いた訳であり、その目的は利益の獲得という、きわめて現実的なものである。
ところが、これを私流に言い換えるならば、「この夢を見続けるため」となる。
いまが「夢」のようだと思い込んでいなければ、けして本気では言えないことであろう。しかし、もちろん私は実際にそう思っている訳であり、そのうちのある程度は無意識にかけている自己暗示によるものかもしれない。
私が「運命の人」や「天使」を人生で何回も見つけているのは、おそらくその為であろう。
もちろんその時点で、「運命の人」や「天使」と呼べる人は世界中でそのただ1人しかいないと本気で思っている。それまでにそう思えた人がいたが、それは違った。いまのこの人に出会うためのプロセスに過ぎなかった。そして、おそらくこの人が本物であり、このように思える人は、きっとこれで最後であろう。ゆえに、もしもこの人がいなくなってしまえば、人生など生きるに値しない。死にたい。
このようなことを毎回、しかも本気で思っている。
このような日常における劇場というのは、わりと他人を巻き込みだちではあるが、そこにおいて重要なのは、やはり誠意なのではないだろうか。けして、邪な思いがあってはならない。私はそこで求める結果が、必ず人のしあわせに繋がると信じている。目的が間違っていた場合、この能力は人を不幸にしたり、犯罪を誘発したりするのかもしれない。
「劇場型の恋愛をしたいなんて呟いたのいつだった?」
このような歌詞があるのは、日本のロック・バンド、Base Ball Bearが2009年にリリースしたアルバム「(WHAT IS THE) LOVE & POP?」収録の「海になりたい part.2」である。
「愛」とは「与えるもの」ではなく、「包み込むもの」だと気づいた、と歌われるこの曲は、おそらくこの先もエバーグリーンな魅力と価値を保ち続けるとは思うのだが、これはおそらく大人になればなるほど分かっていくことなのではないだろうか。
「幻想の普通少女」に見られる過剰な「情熱」や「欲望」を、かつて私は自分のものにしたいと願っていたと思われるが、いまはただそれを大切なものとして、見守っていきたい。
つまりそれは、「海になりたい」ということなのだろうか。
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