1984年5月12日付のビルボード週間シングル・チャートにおいて、ザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」が前週の41位から36位にランクアップし、初のトップ40入りを果たした。最終的な最高位は、29位であった。
ザ・スタイル・カウンシルはイギリスの人気バンド、ザ・ジャムを解散したポール・ウェラーが、1983年にキーボード奏者のミック・タルボットと結成したバンドであった。
ザ・ジャムはイギリスでは「ゴーイング・アンダーグラウンド」「スタート!」「悪意という名の街」「ビート・サレンダー」の4曲のNo.1ヒットを含め、1979年から1982年の間に9曲のトップ10ヒットを記録した、国民的人気バンドと呼んでもいいような存在であった。特にフロントマンであるポール・ウェラーの人気は絶大であった。
しかし、アメリカではヒット・チャートに入ることが一切なく、このザ・スタイル・カウンシルでの「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」がポール・ウェラーにとって初めての全米トップ40ヒットとなった。
ザ・ジャムは1982年10月に人気絶頂のまま解散したのだが、当時、高校1年生だった私は、まだ全米ヒット・チャートを中心に洋楽を聴いていたため、ザ・ジャムのことはよく知らないままであった。
いまのようにインターネットで手軽に音楽が聴けるという時代ではなく、雑誌で名前を見たことはあるが、実際に音楽を聴いたことがないというアーティストがたくさんいた。
私が初めて買った洋楽のアルバムは、ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」であった。当時、日本では「ストレンジャー」の大ヒットで知られる、ニューヨークのシンガー・ソングライターという印象だったが、特にこのアルバムはジャズのテイストが強いものであった。
その後、全米ヒット・チャートに入っているものを中心に洋楽のレコードをいろいろ買うようになっていったのだが、1982年にリリースされたものの中では、ジョー・ジャクソン「ナイト・アンド・デイ」、ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」などが特に気に入っていた。共に、ジャズの影響が色濃く感じられるアルバムであった。
この時点で私はもしかするとジャズっぽい音楽が好きなのではないかという気がしていたのだが、本格的にジャズのレコードを聴きはじめるということはなく、ポピュラー音楽の中でも何となくジャズの要素が入っているようなものを好むというような程度であった。
一方、1983年になると、全米ヒット・チャート以外のものもいろいろと聴くようになっていた。特に当時はまだそれほどポピュラーではなかったヒップホップやワールド・ミュージックの要素を取り入れたマルコム・マクラレン「俺がマルコムだ!」など、かなり気に入っていた。
上川郡当麻町というところから私と同じ旭川の公立高校に通っていたK君は全米ヒット・チャート以外のポピュラー音楽にも精通していて、よく情報交換を」していた。彼からアズテック・カメラ「ハイ・ランド、ハードレイン」、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ「ドッペルゲンガー」のレコードを貸してもらい、これがかなり気に入っていた。
アズテック・カメラ「ハイ・ランド、ハード・レイン」はネオ・アコースティックを代表する名盤として評価されていて、当時、ネオ・アコースティックという言葉が流通していたかどうかはいまとなってはさっぱり覚えてはいないのだが、このアルバムのアコースティックな音楽性が、当時、とても新鮮に聴こえたことは事実である。
初めて聴いたのになんだかとてもしっくりくるというか、新しいのに懐かしいというか、そんな感じであった。
当時、NHK-FMで日曜の夕方に「リクエストコーナー」というまったく何のヒネリもないタイトルの番組があったのだが、じつはこれには大いにお世話になっている。
石田豊さんという方がパーソナリティーだったのだが、2週に1回は全米や全英のヒット・チャートに入っている曲をただただノーカットでかけ続けるという、神がかり的にありがたい番組であった。日本盤がまだ発売されていない曲も、ヒット・チャートに入ってさえいれば全部かけてくれた。
ある日、全英ヒット・チャートに入っていたザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」がこの番組でかかり、すぐに気に入ったのであった。そして、録音したカセットテープを何度も何度も繰り返し聴いた。
アズテック・カメラのようなネオ・アコースティックな感触もあり、しかし、全体的にはよりソウル・ミュージックからの影響を受けているようでもあった。とにかく、当時、17歳だった私がそれまでに聴いてきた音楽のどれとも違い、それでいてしっくりくる曲だったのである。
やがて、この曲が収録されたアルバム「カフェ・ブリュ」が発売されているということで、旭川市内のレコード店で購入した。ミュージックショップ国原だったか玉光堂だったか、はたまた西武百貨店の中のディスクポートだったかはいまとなっては覚えていないのだが、このアルバムがまたものすごく良かった。
ジャズ、ソウル、ネオ・アコースティック、ヒップホップなど、様々なジャンルの音楽が取り入れられていながら、全体はクールなトーンで統一されているような、本当にカッコいいアルバムであった。
それはよかったのだが、お目当ての「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」が思っていたのとは違う、ピアノ弾き語りのようなバージョンで収録されていた。アルバムのトータル的なバランスとしてはこれはこれでいいとは思ったのだが、やはり「リクエストコーナー」でかかったシングル・バージョンがとても好きだったので、録音したカセットテープはその後も何度も聴き続けることになった。
私が「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」の12インチ・シングルを買うことにより、やっと「リクエストコーナー」で聴いたバージョンを手に入れることができたのは、翌年、1985年になってからのことだった。
大学受験のために東京のホテルに泊っていた時だったか、4月から東京で生活することが決まり、引っ越してきてからすぐだったかは定かではないのだが、いずれにせよ、確か六本木ウェイヴで買ったはずである。
ところが、この12インチ・シングルに収録されていたのはアレンジは同じなのだが、7インチ・バージョンよりは少し長いロング・バージョンになっていて、やはり「リクエストコーナー」で聴いたものとは少し異なっていた。しかし、これはこれでものすごくカッコよかった。
1985年に東京で生活をはじめた時、最初に住んだのは巣鴨駅から徒歩約5分の場所にあった大橋荘であった。近くでレコードがたくさん売っている街といえば池袋だったので、予備校から帰ってきてからとか、休みの日にはよく行っていた。西武百貨店の中にあったディスクポート、パルコにあったオンステージ・ヤマノでよく買っていた。
西武百貨店のエスカレーターの近くに大きなスクリーンがあって、そこでよく洋楽のプロモーション・ビデオが流れていた。当時、大ヒットしていたUSAフォー・アフリカ「ウィー・アー・ザ・ワールド」のビデオもここでよく観ていた記憶がある。
そして、「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のビデオもここで初めて観た。フランスの自転車レース、ツール・ド・フランスをテーマにしたような内容で、この人たちがやることはすべてがカッコいいと思えた。
この頃には、「カフェ・ブリュ」に続くアルバム「アワ・フェイバリット・ショップ」がリリースされていて、私はこれをオンステージ・ヤマノで、やはり出たばかりのプリンス・アンド・ザ・レヴォリューション「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」と一緒に買ったような記憶がある。
1990年、フリッパーズ・ギターが日本語による初めてのシングル、「恋とマシンガン」をリリースした。カップリングは「HAIRCUT 100(バスルームで髪を切る100の方法)」であった。タイトルはもちろん1980年代に活動していたイギリスのバンド、ヘアカット100へのオマージュなのだが、曲に「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」からの影響が大いに見られ、一気に大ファンになってしまった。
ザ・スタイル・カウンシルは1980年代の終わりにはセールスがかなり低迷していて、ついにはアルバムを制作するもののレーベルが発売してくれないという事態にまでなっていた。
1990年代に入り、オアシス、ブラーなどが牽引する英国産のギター・ロック、つまりブリットポップのブームがあるのだが、そのシーンに大きな影響を与えた存在として、ポール・ウェラーも再び脚光を浴びるようになった。
オアシスがデビューする前年、1993年のアルバム「ワイルド・ウッド」がそのきっかけとなったのだが、このアルバムはポール・ウェラーにとって2枚目のソロ・アルバムであった。
1枚目のソロ・アルバム「ポール・ウェラー」は、当初、イギリスではレーベルが決まらず、日本のみでの発売だったはずである。
当時、六本木ウェイヴで働かせていただいていた私は、フリッパーズ・ギター解散からまだそれほど経っていない頃の小山田圭吾がこのアルバムを買っている瞬間を目撃し、冷静さを装ってはいたものの、内心、かなりテンションが上がっていた。
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