前回、Negiccoのイベントに行った時の記事には「きみみたいにきれいな女の子」というピチカート・ファイヴの曲からとったタイトルが付けられているのだが、読んでみてもなぜそうなっているかがさっぱり分からない。
じつはいま公開しているNegiccoに関する文章以外にもいろいろとダラダラ書いていて、ピチカート・ファイヴのミュージック・ビデオまで貼っていたのだが、後からその部分はスパッと削除してしまった。なぜなら、あまりにも本当のことを正直に書きすぎていて、これはまずいなと思ったからである。
それにしてもキレ味が悪い。まったくもっておもしろみのない文章である。あのイベントはとても素晴らしかったのだが、その良さがまったく伝えられていない。何か他に心の中に大きな問題を抱えながら、それにふれないようにして書いているという、そんなところが見えてしまう。
岡村靖幸「カルアミルク」の「ここ最近の僕」は「ファミコンやって、ディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見て」いたわけだが、「こんなんでいいのか解らないけれど どんなものでも 君にかないやしない」という分析ができていたのだから、かなりましである。
このような記事に需要があるとはまったく思えず、しかもまた非公開にしてしまうのではないかという予感が濃厚にしているのだが、とりあえず近況などについて書いておく。
誰が興味あんねん。
ここ最近の私は、自宅から徒歩約4分の場所にある広場のベンチでコンビニエンスストアで買ったストロング缶チューハイを飲みながら自分の娘であってもおかしくはないような年齢の女性とずっとLINEをしていたり、普段とは別の家で寝てエアコンのせいで夏風邪をひいたり、なぜか急にいわゆる乙女アニメなどといわれるジャンルのものを観はじめたり、昔の中国のことが書かれた本の世界に迷いこんでしまうようなタイプの少女コミックを読みはじめたりと、完全に迷走しているといっていいだろう。
NegiccoのNHKホールライブを数日後に控えているというのに、心も身体もまったくもってベストコンディションとは程遠い。よわったものである。
にもかかわらず、「マジックみたいなミュージック」の歌詞でいうならば、「まるでナシ 反省のColor」という感じなのだから、性質が悪いとしかいいようがない。
そこで、GREAT 3の「Quincy」などという曲を聴いていると、「こんがらがってればいい 同情されたいなら」などというフレーズが、あまりにも痛く胸に突き刺さってくる。
さらに「涙見せちゃ興醒め 騙されたいのに」であり、「華奢な未来」である。
理屈ではないのだ。
本能というか衝動というか、そういうものを感じたならば、無視をすることはできない。なぜ普通にできないのか。まるでこれまでの人生や価値観を否定することになるからか。いや、そんなことはどうでもいい。知っているのだ、すでに。何が重要で、何がそうではないのかを。
そして、いずれぶち当たるのである。偶然のようなふりをしていても、それはおそらく必然であり、欲望が引き寄せた事態なのだろう。
これを失って生きていけるかな、と時々考える。可能か不可能かではない。私はそれが嫌なのだ。
それにふれ、美を実感できる時、生きていると感じる。それは喜びの時間である。それがずっと続けばいいと思うが、不可能である。
あまりにも本当のことを書きすぎてしまったため、またしても非公開にするのではないかという気がする。
May and December/GREAT3

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