「愛しているから 愛さないで 心から血が 流れ出して止まらない」
この曲が具体的にどのような背景や状況を描写しているのかは定かでないのだが、そんなことはどうでもいい。いま、これほどまでに私の心境をリアルかつヴィヴィッドに表現した歌詞はないといえる。
よく凡庸なラヴ・ソングを聴いたとしても、恋愛の最中においては「この曲は私のことを歌っている」的な錯覚に陥ることができ、それはひじょうに幸福なことなのだが、それにわりと近い状況といえよう。
今日、スピーカーで音楽を聴くと、「これは恋ではなくて、だたの痛み」というフレーズが流れてきた。恋ではなくて、痛みですらないとするならば、それは一体何なのであろうか。もしかすると、何でもないのかもしれない。他人にとってはどうでもいい。
なぜなら、これは私ととある「幻想の普通少女」との間における、たった1つの状況に他ならないからである。
それは、いつも過剰さをともなって立ち現れる。そしらぬ顔をして、すでに感情を過剰摂取(オーバードーズ)している。もはやシラフですらないのかもしれない。
ツイッターのタイムラインを追うのをやめた。それと、定期購読している音楽雑誌を読む気も起こらない。
この先の人生を考えた時、もはやいつでも悔いがないように、その時点における最大限をやりたい。人の見る目など、もうほとんどどうでもよくなっている。要は、いかに生きている実感を得られるかということである。それはつまり、死んでもいいということなのかもしれない。
話はまったくもってくだらない、ありふれた内容に近づきつつあり、ただただもううんざりする。
そして、さっきと同じ曲は、またこう歌いもした。
「きみは天使じゃなくて ただの娘」
ああ、たぶんきっとそうなのだろう。いや、そうに違いない。
だからどうしたというのだろうか。
アメリカの小説家、レイモンド・チャンドラーは「さよならを言うことは、わずかの間だけ死ぬことだ」と言った。この言葉は、昨日も引用した。私はけしてこの小説家の熱心な読者ではないが、最近、この言葉をよく思い出している。
寧ろ、このさよならは心底それぐらいの感情をともなわずにはいられないように仕向けたいと、そのような気持ちでいっぱいである。
まったくもって意地が悪いとしか言いようがないと自分でも思うのだが、これこそが最後の誇りをかけた局面なのだとも、半ば真剣に考えていて、もうどうしようもないなと思うのである。
驚くと思うが、けして気にしないでほしい。
それをなぜ知っていたのであろうか。
When you were a beauty/GREAT3

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