俺は絶対テクニシャン | …

i am so disapointed.

1981年2月9日付のオリコン週刊シングル・ランキングの第3位に、ザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」がランクインしている。第1位が松田聖子「チェリー・ブラッサム」、第2位が田原俊彦「恋=Do!」、第4位が近藤真彦「スニーカーぶる~す」ということで、当時のトップアイドルたちに囲まれてのランクインということになる。

「恋のぼんちシート」はこの年の元旦に発売され、私も旭川のミュージックショップ国原などでそのレコードジャケットをよく見かけたのだが、漫才ブームの流れに乗ってレコードまで出たが、果たして売れるのだろうかと思ったものである。

ところがこれが大ヒットして、最高第2位を記録するまでになったのである。もちろん漫才ブームが大きく盛り上っていたということもあるだろうが、とにかく近田春夫による曲がポップでキャッチーであり、しかも曲中にはザ・ぼんちの漫才でお馴染みのフレーズやギャグなどがふんだんに盛り込まれているというお得感もあった。この辺りがヒットの要因だったのかもしれない。

また、発売日が元旦というのもよかった。子供や学生はお年玉をもらい、通常よりも使えるお金が多く、さらにお正月のムードもあり、普段なら買わないようなものもついつい買ってしまう。

ファッション雑誌「MEN'S CLUB」をパロディー化したジャケット写真も適度にスタイリッシュであおり、それも功を奏したように思える。

漫才ブームだからといって、当時の人気漫才師たちがレコードを出せば、必ず「恋のぼんちシート」のように大ヒットしたかというと、そんなことはない。むしろ、このレベルでちゃんと売れたのは「恋のぼんちシート」だけだったのではないか。

漫才ブーム初期において最も人気があったと思われるB&Bは1980年に「恋のTake3」をリリースしているが、これは最高第40位に終っている。これでも当時は漫才師が勢いで出したレコードがこんなに売れるのか、という感想を持ったものである。

島田紳助は相方の松本竜介をメンバーに含むバンド、SHINSUKE-BANDでレコードを出したが、オリコンランキングの記録には残っていない。西川のりお・上方よしおはブルース・ブラザーズのような衣装で、「MAIDO」というシングルをリリースしたが、こちらもランキング圏外である。

これよりも少し後になると、漫才ブームを牽引した若手メンバーの多くが出演していたフジテレビ「オレたちひょうきん族」から、松本竜介、ビートきよし、島田洋八によって結成されたうなずきトリオの「うなずきマーチ」が最高第55位、また、同じく「オレたちひょうきん族」にレギュラー出演していた山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっこ(バスガイド編)」が最高第30位と、そこそこ売れている。

漫才ブームによって世に出た最も有名な芸人といえば、やはりビートたけしであろう。ビートたけしがビートきよしと組んでいたツービートは、毒舌漫才を売りにしていて、特に「赤信号 みんなで渡れば怖くない」など、交通標語をパロディー化したものが有名であった。また、KKベストセラーズから出た「ツービートのわッ毒ガスだ」はベストセラーになった。

フジテレビ「THE MANZAI」が放送を開始し、漫才ブームが社会現象化した1980年、ツービートはB&B、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、西川のりお・よしおらと共に、その中心にいたが、けして最も人気があるコンビではなかった。世間一般的には、ポップでキャッチーなB&Bやザ・ぼんちの方が圧倒的に受けていたような印象がある。

そして、「恋のぼんちシート」が発売された1981年元旦に、ニッポン放送で「ビートたけしのオールナイトニッポン」がはじまった。

「オールナイトニッポン」のパーソナリティーが変るのは通常であれば4月と10月なのだが、ビートたけしが新パーソナリティーに起用されたのは1月からであった。前任のパーソナリティは当時、ライヴ・ハウスなどで人気があったダディ竹千代&東京おとぼけキャッツを率いるダディ竹千代であった。つい先程までずっと、私は「ダディ竹千代のオールナイトニッポン」が12月で終ったのは聴取率が思わしくなかったからだと勝手に大きな勘違いをしていたのだが、調べてみたところ、あまりにも過激な内容にディレクターから始末書を書かされ、それが打ち切りの原因になったといわれているようである。

「ビートたけしのオールナイトニッポン」の衝撃は相当なものであった。マシンガンのような早口で語られる裏話的なトークはとてもおもしろく、また、大物芸能人を茶化したようなコーナーや、タブーとされていたような話題もどんどん話され、私が通っていた中学校のクラスでも、主に男子を中心に、たちまち話題になった。

その勢いはすさまじく、「ビートたけしのオールナイトニッポン」を聴いていなければ、友人たちとの会話が成立しないぐらいにまでなっていた。高校受験が近づくと、私も生活を朝方に切り替えたため、「ビートたけしのオールナイトニッポン」はタイマー録音して、金曜日に帰宅してから聴いていた。その時期は、学校で友人が話す「ビートたけしのオールナイトニッポン」ネタをなるべく聞かないように注意していた。また、当時、多くの男子生徒がおもしろいことを話す時の口調は、「ビートたけしのオールナイトニッポン」によく似ていた。

大ヒットしていた「恋のぼんちシート」が、じつは盗作なのではないかという話題も、「ビートたけしのオールナイトニッポン」では大いに盛り上った。元ネタだとされたのは、イギリスのバンドであるダーツの「ダディ・クール」という曲であった。確かにそっくりだった。

このネタは作者の近田春夫があっさりとパクりを認めたために、すぐに終息したような記憶がある。

そして、「恋のぼんちシート」がオリコンで第2位にランクインしていた、ちょうどその最中に、ツービートもレコードを出す。アーティスト名はツービートになっているが、AB面がそれぞれのソロ曲となっていた。ビートきよしの「茅場町の女」が演歌なのに対し、ビートたけしの「俺は絶対テクニシャン」はテクノポップである。この曲は「ビートたけしのオールナイトニッポン」でも、もちろんよくかかっていた。

ビートたけしは音楽活動をかなり熱心に行っていた印象があり、後年には「抱いた腰がCha Cha Cha」でたけし軍団を率いて「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」に出演していたりもしていたのだが、曲の内容はかなり真面目なものであった。ところが、このデビュー・シングル「俺は絶対テクニシャン」にはよく分らないものも含め、ギャグの要素が満載である。よって、ビートたけしの音楽作品の中では浮いた存在であり、数々リリースされたベスト盤にも収録されないことが多かった。2009年にリリースされた2枚組ベスト・アルバムにはボーナス・トラックとして収録されているようなのだが、私はこの曲を「ALWAYS外伝~昭和爆笑伝説~」というコンピレーションCDで手に入れた。

まったくの余談だが、このCDに収録されているかたせ梨乃&カツヤクキン「ムキムキマンのエンゼル体操」では、デビュー前の佐野元春がキーボードを弾いているらしい。

さて、「俺は絶対テクニシャン」である。

ドナ・サマー「アイ・フィール・ラヴ」を思わせるシンセサイザーの旋律、そしてビートたけしが「ビニール本!」と叫ぶ。この曲の作詞は来生えつこ、作曲は遠藤賢司である。曲中にはビートたけしによる叫びが登場するのだが、これらは歌詞カードには記載されていない。よって、この「ビニール本!」というのも、来生えつこによって書かれたものではないのであろう。

ところで、この「ビニール本!」というフレーズの意味は、現在でも通じるのだろうか。当時、女性のどぎついヌード写真などを載せた書籍がビニールによって包装されていたことから、こう呼ばれていたようである。「ビニ本」という略称で呼ばれることも多かった。「ビートたけしのオールナイトニッポン」でも、ビートたけしがビニール本を見ながら、その実況をしていくという企画があったような気がする。

軽快なシンセのリズムに乗せて、女性コーラスが「ピコピコ パコパコ スコスコ キンキン」と歌う。テクノ感と下ネタをフュージョンさせた見事なフレーズだが、これはちゃんと歌詞カードに載っている。ということはつまり、あの「夢の途中」や「セカンド・ラブ」と同じ来生えつこがこれを書いたわけである。素晴らしい。

歌詞は出だしから「テクノ テクノと 草木もなびく」である。そして、「カリギュラ体操 コマネチまっ青」と、ビートたけしの人気ギャグである「コマネチ」が盛り込まれている。「カリギュラ」は1980年に公開されたイタリア・アメリカ合作映画であり、過激な性愛シーンがあることが話題になっていた。つまり、「カリギュラ体操」とはおそらく性行為のことをあらわしているのであろう。

また、2コーラス目には「シンセサイザー コードだらけ」という歌詞の後、「けつまづいたり 首つりしたり」と歌われている。ツービートの漫才の特徴であったブラック・ユーモアのセンスが、ここにあらわれている。

また、「テクニカル・バージン 夕暮れ族よ オリーブ・オイルじゃわびしすぎるぜ」という歌詞がある。「夕暮れ族」という単語から、事件としても大きく報道された売春斡旋組織、いわゆる愛人バンクの「夕ぐれ族」のことを思い出した。

しかし、調べてみたところ、愛人バンク「夕ぐれ族」が設立されたのは、「俺は絶対テクニシャン」のリリースから1年後の1982年である。これはいったいどういうことだろうか。

さらに調べてみたところ、「夕暮れ族」という言葉じたいは、愛人バンク「夕ぐれ族」設立以前からすでに流行語になっていたらしい。

1978年に刊行され、1980年には映画化もされた吉行淳之介の小説「夕暮まで」でが、50歳の妻子ある中年男性と22歳のOLとの情事を扱っていたことから、同様のカップルのことを「夕暮れ族」と呼ぶようになったということである。

また、「テクニカル・バージン」についてはよく意味が分からなかったのだが、「夕暮まで」に登場する22歳のOLはバージンであることにこだわり、性行為はするものの、最後はオリーブ・オイルを塗った、いわゆる素股で済ませていたということである。これで、「オリーブ・オイルじゃわびしすぎるぜ」の意味も分かってくる。

歌詞カードには書かれていないが、「オリーブ・オイルじゃ」の後に「吉行!」、「わびしすぎるぜ」の後に「淳之介」と叫ばれている。

その他、歌詞カードには書かれていないビートたけしの叫びでは、「金属バット」「ヘアー解禁」「羽賀書店」「アリス出版」「南回帰線」「ヘンリー・ミラー」「コマネチ」「ピコピコハンマー」「チャタレイ夫人の恋人」「カリギュラ」「ペロペロキャンディー」「緑の山手線 真ん中通るは中央線」「応援団がチャッチャッチャッ」などがある。

当時の有名なビニール本取り扱い書店や出版社、性的描写が原因で発売禁止になった文学作品やその作者などが取り上げられているが、よく意味が分らないものもある。

「金属バット」についてだが、これは1980年11月29日に、神奈川県で20歳の予備校生が両親を金属バットで殴り殺すという衝撃的な事件があり、この頃、危険なワードとみなされていた。

この事件から約1ヶ月後に「ビートたけしのオールナイトニッポン」がはじまったのだが、その第1回目の放送では、この事件と同様に受験勉強のストレスから両親の撲殺を考えて金属バットを買ったというリスナーから相談のハガキが届いて、そのリスナーに電話をかけるという流れになる。

そこでビートたけしはそれを大いに奨励するようなことを言い、ニッポン放送にはたくさんのクレームが寄せられたという。さらにはテレビのワイドショーでも取り上げられる騒動に発展したのだという。

しかし、じつはこれは完全なヤラセであり、リスナー役を演じたのは番組の放送作家、高田文夫の弟子だったらしい。つまり、金属バット殺人事件のパロディーだったわけである。

当時、中学生だった私は、このようなタブーを破り、不謹慎といわれようが何でもネタにしてしまうような感覚をおもしろいと思い、快感を覚えていた。

しかし、現在はそのようにはまったく思えない。むしろ、当時、青春時代を過ごした世代に特に多いように思える、どんなに深刻なこともネタとして消費し、真剣な議論や正論を茶化したり冷笑したりする感覚には、静かに憤りを覚えたりもする。

変ったのは世の中か、それとも私じしんか、おそらくそのどちらもであろう。

「俺は絶対テクニシャン」は、オリコン最高第77位に終った。しかし、この曲はテクノ歌謡としてなかなかおもしろい上に、当時の日本の大衆文化のある側面を真空パックしたような感じもあるのではないかと思う。


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