そんなこともあったんだ 戦後79年風化する戦争の爪あと | 八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(杉並・久我山「舷燈」のお造り マグロ、コウイカ、アイナメ)

 

 先日飲みトモのAさんと訪問した久我山「舷燈」を家内と再び訪れた。

 店主の國男さん相手に与太話をしていると、しばらくして常連さんが顔を出した。

「あ、ゲイの、いえ、この前もいらしてましたね」

「その節はどうも。お住まいはこの辺(久我山4丁目)ですか」

「4丁目の〇〇番です」

「ということは、昔B29が墜落した辺りですね」

「え!そんなことがあったんですか」

 

 常連さんはご存知なかったようで、やおらスマホで調べ出した。

「ホントだ!これ△△さんの家のとこだよ」

 

 土地の古老の話をまとめた冊子「久我山昔話」によると、1945年4月7日午前11時立川方面から飛来したB29の編隊130機を久我山高射砲陣地が迎撃、みごと1機を撃ち落としたのだという。

 

(墜落時の写真「久我山昔話」より 乗員10人のうち1人だけ息があって久我山病院に運ばれたがそこで死亡 病院に当時のカルテが残っていたことから戦後捕虜虐待などで追及されずにすんだとのこと)

 

 聞きかじりで大いに面目を施したわけだが、この際もう少し調べてみることにした。

 

 B29による首都圏爆撃はサイパン陥落後の1944年11月24日から始まった。

 米軍統計資料によると、終戦までの10か月で本土爆撃の総出撃数は延べ3万3,400機、撃墜されたB29は485機でそのうちの1機が久我山に墜落したことになる。

 

 米軍の爆撃ルートはマリアナ基地から富士山を目標に北上、富士山上空でジェット気流に乗って西側から東京を目指すというものだった。

 1万mの高高度を飛行するB29に対し、ジェット気流を逆風にうける我が迎撃機はほとんど空中に停止しているようなものだったという。

 

(富士山上空を飛行するB29の編隊 当時山梨県にいた亡父は朝日を浴びてキラキラと煌めくB29の大編隊を見て不謹慎ながら「きれいだなあ」と思ったそうだ) 

 

 米軍の戦術を一変させたのは時の日本爆撃指揮官カーチス・ルメイである。

 ルメイは従来の伝統的な爆撃戦術、すなわち「昼間に、高高度から、軍事施設を標的に」を「夜間に、低空で、無差別に」に変更した。

 また日本軍迎撃機の反撃が脆弱なことから機銃、機銃手を機体から除き、さらに大量の爆弾、焼夷弾を搭載できるようにした。

 

 彼の無差別大量爆撃(爆弾より焼夷弾の方が効果的なのでこれを活用)の結果、1945年3月10日の東京大空襲ではたった一晩で10万人の市民が殺されたのである。

 

(カーチス・ルメイ(1906~1990)

1964年米空軍参謀総長として来日したルメイに対し時の佐藤栄作内閣は国際慣例に基づき勲一等旭日大綬章を授与することを決定した この決定に対し昭和天皇は慣行を破ってルメイへの親授を拒否されたという)

 

 一方迎え撃ったのは陸軍高射第1師団(高射師団は第1(東京)から第4(小倉)まであった)第122連隊第1大隊である。

 第1大隊の久我山陣地(現高井戸公園)には主力高射砲だった八八式7センチ砲(有効射高9100m)が6門、高高度侵入に対応するために急遽開発された最新鋭の五式15センチ砲(同1万9000m)2門が配備されていたが、15センチ砲が配備されたのは1945年6月のことだから、B29を撃墜したのは陳腐化したはずの7センチ砲ということになる。ルメイの戦術変換でB29が低空で(目撃談によると高度4000m)侵入してきたことが幸いしたのだろう。

 

 常連さんによると墜落現場の付近にそれを示す石碑や看板のようなものは一切見当たらないとのこと。

 久我山高射砲陣地跡も7センチ砲の配備地点は明らかになっているが、15センチ砲の場所は何度かの調査でもいまだに不明のままらしい。

 

 戦後79年、戦争の記憶は風化し、かつての「日、出ずる国」もいつしか「日、没する国」へと落魄した。

 

 思えば遠くにきたもんだ。

 

(都立高井戸公園 15センチ砲はどの辺にあったのだろう)