(長篠城遠景 三方が宇連川・豊川の断崖となっている)
かつての同僚デカちん氏とのセンチメンタルジャーニー初日の目的地は長篠合戦古戦場。
朝5時過ぎに家を出て待ち合わせの豊橋に向かった。
待ち合わせ場所はグーグルマップで調べて駅前のシャレた感じの喫茶店にした。
名にしおう名古屋のモーニングを食うのが楽しみだが、それまで空腹を我慢できそうもないので東京駅で弁当を買った。
(画像と記事は一切関係ありません)
不味い。
昨年米原で買った駅弁に次ぐ不味さであるが、所詮前座だから腹も立たない。豊橋モーニングの期待がいやましに高まった。
(銀だらも大したものではないがつけ合わせの不味さよりはマシ)
8時前に着いた豊橋駅は想像よりはるかにショボい街だった。
喫茶店も駅前に一軒だけで、スペースインベーダーとかがありそうなレトロな佇まいであった。
(画像と記事は・・・ 以下同文)
タバコ臭い店内には徹夜で遊び呆けたと思わしき男女が3人。
「モーニングはどんなのありますか」
「モーニングは『モーニング』だけです」
「・・・」
やがてやって来たモーニングは安いので文句を言ってはバチがあたるとはいえ、なんともショボかった。
(まあ440円だからね)
ボソボソとモーニングを食っていると窓が突然暗くなった。窓越しにデカちん氏がニタニタとこちらを覗いている。
私は家で食ってきました、というデカちん氏は私のモーニングを一瞥し、
「ゴージャスなモーニングって元々岐阜が発祥なんですよ」
「・・・」
「名古屋までそれは伝播したんですが、豊橋までは伝わってないです」
いひひ、と笑うデカちんに私が殺意を覚えたのはいうまでもない。
さびしいメシを終えてカーシェアの置き場へ。
いよいよ長篠古戦場に向けて出発だ。
(隣のクルマが小さく見えま~す 意味もなくデカいデカちん)
デカちんの運転で一路設楽ヶ原古戦場へ。わざとではないが、運転免許証を忘れた私は気楽なものだ。
曇天で雨がいまにも降り出しそうで、かつてここで合戦が行われた時も同じような雲行きだったことだろう。
(復元された馬防柵)
(両軍が対峙した連吾川はショボい小川 当時もこんなものだったのだろうか)
設楽ヶ原は想像よりはるかに狭隘な土地だった。騎馬戦にはいかにも不向きなこんな場所に何故武田軍は進軍してしまったのだろう。
(馬防柵から武田軍側を望む ○の辺りが武田勝頼観戦地)
今度は武田軍側から眺めてみようと勝頼公観戦地へ。
(残念ながら現在は杉の疎林に阻まれて視界は開けていない)
観戦地は設楽ヶ原とは指呼の距離だから、山県勢、小幡勢などが次々に壊滅する一方で穴山信君、武田逍遥軒といった一門衆が早々に戦場から離脱していくのも勝頼公にはよく見えたはずだ。
彼ら一門衆から見ると勝頼は所詮妾腹の子、しかも武田に滅ぼされた母親の実家(諏訪家)をいったん継いだヨソモノだったのだろう。
「他家の家督を継いだものは後継にはなれない」というのは当時の常識だったようだ。
事実信玄公はその遺言で、
・ 武田宗家の家督は勝頼嫡子の信勝(当時7歳)に継がせる
・ 信勝が16歳になるまでは勝頼を陣代(後見人)とする
・ 勝頼は陣代に過ぎないから戦にあたって武田家の旌旗を使用してはならない
と定めていた。
長篠合戦の折信勝は9歳。次第に迫る己の賞味期限に勝頼は成果をあげることに血道をあげていたのだろう。
そんな勝頼が滅んだのは長篠合戦から9年後。父とともに自刃した信勝が奇しくも16歳を迎えた時だった。
つはものどもが夢のあと。
そんな感慨に浸りながら長篠城址に向かった。
(お調子モノが鳥居強右衛門ポーズを決める)
わずか500の城兵で城を守り切った奥平信昌の成功譚には鳥居強右衛門の犠牲のエピソードが欠かせない。
長篠城落城が旦夕に迫ったある夜強右衛門は厳しい包囲の目をかいくぐって織田・徳川本陣まで参じ、窮状を訴えた。
信長はこれを引見、一両日中には長篠城後ろ巻き(救援)に駆けつけることを伝えたところ強右衛門はその朗報を即刻城兵たちに伝えるべく再度的中突破を図ったが、途中武田軍に捕らえられてしまう。
「『後ろ巻きは来ない』と城中に告げればオマエの命は助けてやる」と言われた強右衛門はこれを快諾したが、長篠城の眼前に引き出された強右衛門は声高に城に向かった叫んだ。
「お屋形様の後ろ巻きはそこまで来ている。あと一日の辛抱だ」
怒り狂った武田軍によって強右衛門は城兵が見つめる前で磔刑に処された。
(長篠城本丸跡から強右衛門磔刑の場所を望む この距離なら強右衛門の励ましも強右衛門の断末魔の様子も手に取るように分かったことだろう)
(磔刑地から長篠城を望む 籠城する朋輩たちの顔がかすかに見えたはずだ)
戦後奥平信昌はかねての約定通り家康の娘をもらい徳川一門衆として幕末を迎える。
忠臣強右衛門の子孫は奥平家で代々要職につき、これも無事幕末を迎えてその末裔は現在に続いている。
(強右衛門の見事な最期は敵方の武田軍も感銘させた 武田家中落合佐平治は本人の了解を得て強右衛門磔刑図を自身の旗印にした)
一行は長篠古戦場を後にして一路豊橋へ。
ここから岐阜に向かい今宵の宿を目指した。