箱根駅伝をついつい見てしまう理由 | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(Aさん宅の雑煮 おすましに炙った角餅という純関東風)

 

 囲碁トモAさん宅で新春恒例の雑煮会が行われた。各自勝手に持ち込んだ酒やツマミを楽しみながら、碁を打ったりバカ話に興じたり。

 

 そんな時に欠かせないのが箱根駅伝の観戦である。

 「羽鳥慎一モーニングショー」で玉川徹さんが言っていたが、箱根駅伝は全世帯のおよそ3分の1が観るというオバケ番組らしい。

 

 冴えない絵ヅラの地味な競技なのに何故駅伝はこんなに人気があるのか。

 玉川さんは獲物をどこまで追い続けるという太古からの人間の狩猟本能を刺激するから、との説を唱えていたが気の毒なことに解説の瀬古さんに黙殺されていた。

 私も玉川説には賛成できない。それが正しければマラソンの方がさらに人気が高いはず。

 

 考えられる理由の一つは、「正月に観るのに最適」だからである。

 誰かとしゃべくったり、酒を飲みつつ年賀状に目を通したり。ふとテレビを見るとさっきと状況は変わっていない、という気楽さ。これが同じく新春の定番スポーツであるラグビーだとノンビリしているわけにはいかない。まあ駅伝は新年のBGMといったところだろうか。

 

(99%囲碁に集中、時々「〇〇大はどうなってる?」なんて感じ)

 

 私自身が駅伝に惹きつけられる最大の理由、それは駅伝があまりにも残酷で人生の縮図そのものだからである。

 駅伝はプレーヤーの途中交代を認めない「完全連座制」の競技である。おそらくこのような団体競技は駅伝の他にはボート競技とかほんのわずかしかあるまい。

 

 江戸時代からこっち、我が国では「五人組」、「十人組」という統治が行われてきた歴史がある。

 農村においては組の構成員一人が年貢を納められない場合は組全体でその不足を賄い、それが出来ない場合は組全体が咎を受ける。町衆においては組の中から罪人が出ると組全体が同じ罰を受けるという相互監視手法である。

 この統治手法は西洋ではあまり見られず(おそらく西洋は「神と自分」、「領主と自分」という「個」を核とする契約社会であることが背景にある)、駅伝という競技自体「EKIDEN」と呼ばれるようにいかにも日本的な、日本オリジナルの競技なのである。

 

 大学4年目でやっと、やっと掴んだ代表選手の座 

 それなのに1月2日、朝起きるとなんだか喉が痛い

 チームのために監督に申し出て出場を辞退しよう

 そう決心して顔を洗っていると洗面器に我が子の晴れ舞台を心待ちにしている両親の顔が浮かんだ

 よし、ここは一番、精神力を振り絞ればなんとかなるかもしれない

 

 98回を数える箱根駅伝にこれまで出場した選手は正味1万人位だろうか。

 その中で途中棄権した選手はこれまで10人足らずだが、体調不良をおして出場し、「大ブレーキ(残酷な言葉だなあ)」となった選手は数知れない。

 

 私ももうすぐ65歳、恥の多い人生を送ってきました(←太宰か)。

 「ゆるふわ、いたろ?」

 「あ~、〇〇の時××しちゃったヤツね」

 「××の時、△△したのもアイツだぜ」

 「うわ、恥だな。恥。よく生きてられるな~」

 夜中にふと目覚めて、何故かかつての忌まわしい出来事が脳裏に浮かぶ。それだけでふとんの中を転げまわらずにはいられない屈辱と後悔。

 命長ければ恥多し。大なり小なり誰しもそんな黒歴史を持っているに違いない。

 

 途中棄権したり、「大ブレーキ」になった選手はその後どうしているのだろう。

 OB会とか普通に出席しているのだろうか。

 そのたんびに「あの時はすまなかったね」なんて、詫びているのだろうか。

 「気にすんなよ。オレたちは気にしてないぞ」なんて言われると余計つらいだろう。

 

 そんなことを考えるととても他人事とは思えなくて、「棄権が出ませんように、大ブレーキが出ませんように」とハラハラしながらついつい画面を見続けてしまうのである。