中央自動車道の観光スポット「釈迦堂遺跡博物館」へ | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(縄文時代中期の土偶)

 

 東京から八ヶ岳南麓に向かって中央道を走っていくと、右に競馬場が見え、左にビール工場、さらに進んで笹子トンネルを抜け(随分進んだね~)、勝沼ICを過ぎたところにあるのが釈迦堂PAだ。

 いつもはドッグランがあるひとつ先の境川PAで休憩するのだが、

「釈迦堂PAには縄文時代の土器などを展示する博物館が併設されていて一見の価値がある」というので今回初めて寄ってみた。それぞれがプロフィットセンターだからPAの集客合戦も大変なのだろう。

 

 

(堂々たる佇まいの釈迦堂遺跡博物館 PAから階段をあがっていく)

 

 何故PAに博物館が併設されているのか。

 おそらく中央道掘削工事の過程で大規模な遺跡が見つかり、工事の中断を余儀なくされたNEXCO中日本が土器類を素直に差し出すのがなんだか腹立たしくなって、「それなら博物館作ってさ、中央道の利用者にだけこっそり見せてあげようじゃないの」となったのだろう。

 

 階段をトボトボ上がるとすぐ疑問が氷解した。「釈迦堂遺跡博物館」はPAに併設されているわけではなく、一般道からもアクセス可能なのである。どうやら「併設」ではなく、「隣接」ということだったらしい。

 

 400円の料金を払って館内に。受付の方に「JAFの会員証ありませんか」と聞かれたから、どうやら会員割引があるらしいのだが、残念ながら私は昨年秋に会員資格を失っている。

 

 広い館内の2階が常設展示室になっている。そこには釈迦堂遺跡から出土した夥しい数の土器類が陳列されていた。

 

(水煙紋土器 縄文中期 

 一人では持ち運べそうもない大きさ どんぐりのあく抜き、貯蔵に使ったのだろうか)

 

 縄文時代というのは世界史的には新石器時代に相当するもので、およそ1万5000年前から3000年前頃まで続いたらしい。釈迦堂遺跡は縄文中期(約5000年前)に繁栄した集落の跡地で、およそ200戸の竪穴式住居が見つかっている。

 

 縄文人は栗、どんぐり、といった木の実が主食でシカ、イノシシなども食っていたらしい。

 日照時間が長く落葉広葉樹が繁茂する八ヶ岳南麓や甲府盆地は当時は食料が豊富な先進地域だったのだろう、関東各地の遺跡で出土される土器には山梨県産が多く混じっているという。

 また釈迦堂遺跡で見つかった鏃に使われた黒曜石は長野県和田峠産、湯河原産、果ては伊豆神津島産もあるというから、交易は相当広範囲に行われていたようだ。

 

(深鉢型土器 縄文中期 奥に見えるのが水煙紋土器)

 

 ここから先は私の勝手な想像である。

 

 かつて諏訪の地にタケミナカタという縄文人がいた。

 タケミナカタは和田峠の黒曜石を武器として、あるいは交易品として活用し、諏訪、八ヶ岳南麓、甲府盆地にまでまたがる原始国家「どんぐり王国」を築き上げ、その王となった。

 やがて彼の地に「稲作と鉄器」という新しい技術を担いだ弥生人が中山道をえっちらおっちら西方から

やって来た。ヤマト朝廷の尖兵タケミカヅチである。

 両者は塩尻の地で乾坤一擲の一戦に及ぶが石器対鉄器では所詮勝負にならない。鎧袖一触タケミナカタを打ち負かしたタケミカヅチは以後諏訪に逼塞することを条件にタケミナカタを許した。稲作には不適な諏訪に戦略的な価値はないからそのまま捨て置き、沃野を求めてさらに東方へと進出したのである。

 それから2000年を経た今日、タケミナカタは諏訪大社の御祭神として、またタケミカヅチは鹿島神宮の御祭神として今でも善男善女の崇敬を集めている。

 

(縄文人はどんな暮らしをしていたのだろう 我々のゲノムの12%は縄文人由来だそうだ)

 

 中央道を使う機会のある方は是非一度「釈迦堂遺跡博物館」を訪れてはいかがでしょう。