正義の定義。 | RIVIED-ARTS STUDIOに棲むAIZENのなんか日々デスマーチ的なアレやコレや。

RIVIED-ARTS STUDIOに棲むAIZENのなんか日々デスマーチ的なアレやコレや。

RIVIED-ARTS STUDIOに棲む、どういうわけかほぼ日々デスマーチがデフォルトのAIZENが、たま~~~~~~~~~に、ふらっと、何かしら更新します。
ネタがある時は更新する余裕がなく、逆に更新する余裕がある時はネタがない……はい、まぁ、よくあるヤツです(笑)

「うわ、これはひどい……」
と正直思った。いまだに国はワクチンを推奨してるし、効果があると信じて疑わない人もいる。
が、効果がないうえに害にもなる可能性を示唆したデータも山ほどある以上、ワクチン接種が世の中のためになると"断定"してそれありきで物事を決めるのは、完全に間違ってる。
だって効果があるもないも害があるもないも決めようがないのだから。
打ちたい人は打つ、打ちたくない人は打たない、他人が打っても打たなくても否定も批判もしない、こんなシンプルで当たり前のことが逆に当たり前にできなくなっている世の中は、本当に狂っているというか麻痺しているというか……意味不明としか思えない(´_`。)

だけどこのジャズフェスの件、一概にジャズフェスだけを責めるわけにもいかない。

僕も松島パークフェスティバルの運営に携わっているから言えるのだけれど、フェスの運営には行政から民間から、本当にいろんなところにしがらみが多い。
県からは「大規模イベントを開催する場合のガイドライン」的なものを提示され、開催地の市町村からも何かしら要請され、さらにある意味もっとやっかいかもしれないのが、万が一何かあった場合(とはいえ、風邪もコロナもそもそもはっきりした線引きができない以上、本当に何かあったというよりも、偶然現地にいた人が偶然体調を崩して偶然PCR陽性が出た的な、別に本当は問題でもなんでもないことなのだが…)、部屋の隅っこの埃を見つけて嬉々として怒鳴りちらかす鬼姑のごとく、徹底的に批判してくる人やメディアが悲しい事に少なからずあるということだ。

だから、フェスをやろうものなら、まず行政のガイドライン(これも本当は全く無意味なのだけれど…)を最低限はクリアしないといけなく、さらに「それ見たことか」と突っ込む準備万全の人が突っ込めない状況を作らないと、そもそも開催すること自体が難しい、それが今の世の中の状況だったりする。

もちろん、ジャズフェス運営がガチガチのワクチン信仰者の可能性もゼロではない。
(一応誤解のないように言っておけば、ワクチン信仰者自体は別に否定しない。その人自身がワクチンが有効だと思っていて接種する分には、それはその人の自由なのだから)
だけど、運営と言ってもたくさんの人がいる以上皆が同じ考え方とは限らないし、どちらにしても開催するためのしがらみがたくさんあることには変わりない。

だから、一番問題なのは、ジャズフェスそのものではなく、断定できないものを無理やり断定し、本来正解なんてなくてそれぞれの判断で自由に決めるべきことに無理やり一つの正解を設け、結果、無意味なしがらみだらけを生み出し続けているこの世の中の状況自体、そんな世の中にしてしまってる我々自身、ここが一番の問題だと心から思う。


ちなみに今月29日に開催が迫った松フェスはと言えば、実行委員の面々が少しでも自由にやれるようにギリギリのところでいろいろ頭を悩ませてくれていて、接種証明なんてものが必要ないのは当たり前だけど、それ以外でも、去年の秋開催の時より多少ではあるがいろんな制限を少なくしてる。
僕個人としては、本当は、他人の行動を制限するようなものは一切設けずに、不要な"対策もどき"は一切せずに、ただ"普通に"イベントを開催したいと思ってるし、ずっとそう言い続けてはいる。
だけど僕個人では当然フェスを取り巻くいろんなしがらみに勝てるわけはなく、力及ばずある程度の制限を課してのイベントになってしまっているのが心苦しいところではあるのだが、他の実行委員の皆々様が本当に柔軟に考えてくれて、なんとか今の形にできている状況だ。それがジャズフェスとなれば松フェスより規模は大きいし、規模が大きければ大きいほど当然しがらみも増える。ジャズフェスと同じ仙台市内での開催のとっておきの音楽祭は接種証明は不要なようで、それならジャズフェスももう少し頑張ってほしかったとは正直思うけれど、何にしても相当なしがらみがあるであろうこと、そして実行委員とはいえ一枚岩とは限らないこと、そのへんも考えて、希望的観測かもしれないが、ジャズフェスだけを責めないようにしたい、そう思っている。


何にしても、一番の問題はこの麻痺した世の中、そしてそうしてしまっている我々自身だと思う。

ワクチンだって、マスクだって、その他のいろんな"対策"と言われてるものだって、効果があるもないも、そもそも証明できるようなものではない。
だからこそ、個人個人がどうするか選び、他人の選択を否定も批判もしない、この形が一番よいと、僕は心から思っている。

人の数だけ選択があり、人の数だけ正義がある。
だけど、正義感が強ければ強いほど、自分の正義に自信を持ち、世の中全体がそうなるべきだと思ってしまうのかもしれない。


「正義は自分の中で掲げ、自分の行動の指針にするもの。他人の正義は自分と違うものでも尊重し、自分の正義を他人に押し付けない」


これが僕が考える正義の定義だ。
多くの人がこういう風に考えられれば、世の中もっと平和になるのにな、とは思うが、ある意味それは「自分の正義を他人に押し付ける」ことにも繋がるというパラドックスでもある。
だから、そう考えるべきだ、とは言わない。
ただただ、そう願ってやまない。