ふと友人の投稿に端を発して東京生まれ東京育ちの私のアイデンティティについて思い返した。
かつて大学に行ったとたん地域を背負って、または地域を持ち込んできた地方出身者の圧にかなりビビった記憶がある。
東京育ちには基本作られた街と、毎年人が大きく入れ替わる根付かない文化や土地で何にすがればよいかと20代でたくさん模索した。
日本人のルーツも探り大陸からの移民、アイヌや沖縄だけでなく南方の島々からの漂着、移民も多々あって日本人は単一民族でないと識った。
沖縄に惹かれた時期もあったが日本の伝承などを更に遡ると沖縄を通り過ぎてインドネシアまで行き着いたりした。
ノマドな民(もしくは漂着してきた民)が集まり去っていく土地に魂を委ねられない東京という場の特異性がすでにアイデンティティなのかな、と。
とはいえ「自分の中のものだけで作っていくといずれ枯渇する」というのは結構体験してて、その度に何かしら他の土地への旅をしていたように思う。
沖縄にいくら憧れていて文化を深く知ってもヤマトンチュというある加害者な面も第三者的なところもあってウチナンチュにはなれないと感じたところもある。
旅行はまだまだするつもりだけども、オーストラリアやフランス、台湾の方とのわずかな交流で民俗学的連鎖的変化を飛び越えて変わらぬ感覚、受け入れてもらえる共通の感覚があることは衝撃だった。
アニメのセリフで「溢れた水はコップには戻らない」に対して「水はまた汲めばいい」と返答してる簡単な会話に、今そうやって生きているよね、と思い返したりした。
今思うのは、今やっていることは自分の感覚を割と信じていて、井戸みたいなものでそれを掘っていくと他の水の流れに行き着く。
自分を識ると他者もわかり、人間も分かりまた繋がっていく。(教科書的だが……(^◇^;))
完全なスタンドアローンではないことは前提の上でだけど。
上記の体験もごく最近、失敗や孤独や不安からわずかに感じたことではあるけれど何故だか信じてる。
昨日数ヶ月ぶりにキャンバスに色を塗って新たなレイヤーを加筆できた。
色を塗って変化を実感することが楽しい、嬉しい、と思えること(この先も楽しく嬉しいと思えるだろうという妙な自信)が根拠なのかもしれない。
目下、気候気圧変化で自律神経は弱りまくりではあるのだが。^ - ^