三月からあなたへ | a tiniest hope

a tiniest hope

ちっぽけな希望の話

 
 
 
こんばんは
 
なんとなく
久しぶりに書いています
 
家の近くの桜が咲いて、春
 
今夜からは春の嵐だってね
 
吹きすさぶ未来
 
つかまえていいんだよ、どれでも
 
どれもあなたのものなんだから
 
でもせめて
 
花びらに声をかけるのは
 
〝嵐になるまで待って〟
 
 
 
 
 
 
『白日』とは、多くの人にとってKing Gnuのそれだと思うが、僕にとってはこの歌である。10 years ver. の言葉に10年経った事を改めて思い知るのである。
自分は何者なのか、まだ自分に良心というものはあるのかとかそういう他者からしたら下らぬ御託を考える時、この歌のフレーズが頭に浮かぶ。
嘗てあの震災で被災した人と生活を共にしていた事がある。彼女の親や姉妹は損なわれなかったが周りの人は何人も損なわれたと言っていた。
友人のひとりに自衛官として行方不明者捜索の為に被災地に赴いた者がいる。被災地の光景と親を探す男の子の姿は一生忘れられないと言っていた。
僕はあの日夜勤入りで、テレビニュースを食い入る様に見ていた気がする。あの日の僕にとって、あの震災は対岸の火事でしかなかったのかもしれない。
震災の爪痕や傷跡は社会の中から少しずつ忘れ去られていく。
それを悪という人もいるが、僕はある種健全な事だと感じる。あれから10年経ったのである。いつまでも辛く厳しい出来事に目を向け続ける必要はないし、人々の暮らしがうまく回っている事の証拠でもある。
ただ、社会は忘れて行っても人々の記憶からはなくならない。個々人の個人的な記憶の中にあの日の出来事とそこで損なわれた人々の記憶は残り続ける。人はいつまでもそれを抱き続ける。そして祈りを捧げ続ける。
だから良いのだ、社会が忘れてしまっても。
社会は今を生き続ければ良い。その社会に引っ張られながら人々は胸に過去を抱きながらも歩んでいく。
 
 
貴方ってホント
 
風に乗って届いた『白日』をKing Gnuとしないところも
今を社会にあずけることを軽やかに赦すとこも
過去を抱えることを強引にやさしく慈しむとこも
 
貴方らしい
 
わたしは〝自分らしく〟とか〝あなたらしく〟とか
そういう可能性を狭めてしまうような言葉があまり好きではないんだけど
 
貴方が貴方らしくそこにいてくれることが
たまらなく喜ばしいのです
 
 
ねぇ
 
貴方とわたしがインスタで出会ってから
もうすぐ5年だね
 
お互い時々消えたり現れたり
声かけたり気遣ったりしながら
それぞれの場所で息してる
 
ネット上のひとで
実際に会うこともなく
 
近づき過ぎず、遠ざからない
 
こんなにも冷酷で
こんなにもやさしい関係を
わたしは他に知らない
 
愛がなくてもSEXはできるけど(わたしはね)
愛がなくちゃ言葉の撃ち合いはできないんです(わたしはね)
 
早咲きの桜の下で
不意に貴方が心に手を添えたから
わたしはその秒速の隙間に
手紙を書きたくなりました
 
暖かくしてますか
夜のコーヒーはおすすめしないけど
こんな夜はコーヒーとタバコをのみながら
石田衣良を読みたいって心底思う
 
 
 
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春の涯(はて)があるなら
それは
貴方の手のひらが
大切な女の子の頭をなでるその瞬間かもしれない
 
わたしはその時の貴方の
泣きそうなくらい幸せそうで
笑っちゃうくらい苦しそうな背中を
そっと遠くから眺めていたいと思う
 
祈るしかできないなら祈らない
そう思っていたんだけど
今は
祈るしかできないなら祈りたいとそう思う
 
貴方に倣って容赦ない言い方するよ
 
“好むと好まざるとにかかわらず
貴方が貴方の現実を生きていますように”
 
 
 
わこ