霊的視点を持つことで見えるもの | シルバーバーチの霊訓を道標に生きる

シルバーバーチの霊訓を道標に生きる

「傷みと苦しみ、困難と苦難、そうしたもの全てが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。」~シルバーバーチ~ 

心の道場さんのニューズレターの内容について、インターネット上で様々な意見を目にします。

ストイックであるというご意見や、偉そうだとか、そういった批判的内容のブログや書き込みを初めて見たときはとても驚き、そしてショックでした。

私にとって心の道場さんのニューズレターはとても良い指針となり、スピリチュアリストの大先輩として見習いたいと思っています。

しかし、心の道場さんへの批判を目にしたとき、私の中に迷いが生じました。

それは、個人を批判されているニューズレターを読んだ時に感じていたことです。

心の道場の皆様は、スピリチュアリストとして大先輩であるとはいえ、人間が同じ人間を批判する権利があるのだろうか?

シルバーバーチのような高級霊は批判しても良いが、肉体をまとい全てを見通すことの出来ない地上人が、他人の間違いを公に批判するのはどうなのか?
と思いました。

その部分がどうしても納得出来ず、しばらくは霊言のみを読み、心の道場さんの解釈からは距離をおいていました。

それから半年程が経ち、最近その答えを求めて本を開いたところ、明確な答えをいただきました。

以下に引用します。



他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか。

この問題は非常にデリートであり、それに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることになんの意味もありません。しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、ひとりだけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見きわめる必要があります。(聖王ルイ パリ、1860年)  ~スピリティズムによる福音p.194~




この一文で私は、自分が何と浅はかであったのかと恥ずかしくなりました。

心の道場の皆様は決して個人を批判されていた訳ではなかったのだと気付きました。

批判や攻撃ではなく、その個人とスピリチュアリズムに導かれた後輩への愛に基づいた、より良き道への指南なのだと思いました。

「もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。」

この精神で、敢えて警告を発していらっしゃるのだ、とニューズレターを冷静に読み返してみるとよくわかりました。


心の道場さんの解釈が絶対的に正しいとは申しませんが、少なくとも私が今いる霊的段階よりは、格段に先に進んでいらっしゃると思います。

ですから、私たち後輩の為に自らが正しいと思われることを示して下さっているのだと思いました。

先にいる者が後から来るものを導くのが進化の法則だからです。

公の場に、霊的真理に照らしてある特定の個人への疑問や問題を発表するということは、それを発する側は大きな責任を負うという事です。

心の道場の皆様の活動やニューズレターの内容からは、その責任感や覚悟が伝わって来ます。

何事も霊的視野を持ち大局に立って見なくてはいけないのだ、と改めて気付かせていただきました。