落城寸前に、浅井長政がお市様に手渡した仏像
おはようございます。
一泊2日で京都に行ってきた
京都に行った目的?
……もう、歴史オタクなら分かるよね?
5月7日は、大阪城落城の日
(真夜中なので8日とも言われている)
推し、淀殿とその息子豊臣秀頼の命日だ。
木曜日に、京都の養源院で、
淀殿と豊臣秀頼の法要が行なわれた
もちろん、参加した。
法要なので、特別に念持仏「弁才天坐像」が見られた
この「弁才天坐像」は、小谷城落城の時に、
浅井長政がお市の方に手渡した仏像。
仏像の写真は、ここでは上げられない。
けれど、仏像を紹介した記事をこちらに置いておく。
この仏像を、夫亡き後も、お市様は大事に持っていた。
ところが九年後。
柴田勝家に嫁いだお市様は、一年もしないうちに再び落城を経験する
……ほんと、ついてない。
嫁いですぐに敗戦である。
自ら死を覚悟したお市様は、長女の淀殿に
この仏像を手渡した。
父母を亡くした淀殿は、その後、
皮肉にも両親を滅亡へ追い込んだ豊臣秀吉の側室になる。
けれど、母の死から三十二年後。
娘の淀殿は、また落城を経験する
母と同じように、死を覚悟した淀殿は、
落城前日に真ん中の妹・初(後の常高院)に、
この仏像を、徳川秀忠に嫁いだ末妹・江に手渡すように伝えた。
炎の中、大阪城から逃げてきた初は、
末の妹 江に仏像を手渡す。
その仏像が、400年の時を経て自分の眼前にある
もう、体中の血が沸騰するような心境だった。
小さな仏像だ。高さは8センチくらい。
織田信長によって滅びた小谷城。
豊臣秀吉に攻め落とされた北ノ庄城。
徳川家康に包囲された大阪城。
そのすべてを越えて、守り抜かれた仏像だ。
推しが故人の場合ーーそれも、400年前ともなると、必要なのは妄想力なのだ
この仏像は、浅井長政が妻に
「浅井の血を残してくれ」と託して渡したもの。
滅びる城で、淀殿は、
この仏像を後世まで大切にできるのは、
敵である徳川家に嫁いだ妹の江だと、判断したからだと思う。
敵と味方に別れても、
父の願いと母の想いを仏像と共に、妹に託したのだと思う。
父母の願いだった「浅井の血を残す」は、
結果として、今の天皇家へと繋がっている。
京都の三十三間堂の向かいにある養源院は、
淀殿が秀吉の子を出産したときに、
「(出産)ご褒美にお父さんの菩提寺を作って」
と願い出て、創立された。
(かなり、端折っている)
本来であれば、浅井長政は、
豊臣秀吉に刃向かった大名なので、菩提寺を作るなんて、
「あり得ない話」なのだ。
けれど、天下人・秀吉は、惚れた淀殿の願いなら、「いいよ」と許可をした。
そして、大阪城が落城した翌年。
末妹の江は、
舅 徳川家康の喪中に、
敵の姉 淀殿と甥 豊臣秀頼の法要をした。
これは、今の世でも「やばくね?」
と言われそうな炎上案件だ。
淀殿は、妹たちを守るために、三十歳以上年上の豊臣秀吉の側室になった。
そのことを、江は忘れてないのだと思う。
本来、法要が行われた松の間は、将軍のための部屋
それを庶民のオタクの私が、参加できることも、あり得ない話だ。
参列中、「あれ?私、なんで、こんな場所にいられるのだろう」と思った。
目の前には、淀殿、豊臣秀頼、お市の方の位牌。
その奥に、将軍徳川秀忠、お江、浅井長政の位牌。
徳川と豊臣、浅井が入り乱れた場だ。
もう、めちゃくちゃだ。
法要の時に、初めてお逢いした方に、
「ブログ読んでいます。新潟の整体師さんですよね」と声をかけてもらった。
ニッチすぎる「淀殿推し」を、ずっと続けていると、思わぬご縁がある。
そう実感した法要だった。
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