2月20日に投稿したなう
1月22日に投稿したなう
デヴィッド・ボウイのHPがリニューアル
デヴィッド・ボウイの誕生日(私の父の誕生日にあたる)である本日、彼のHPが大々的にリニューアルされている!
デヴィッド・ボウイがニュー・アルバム『The Next Day』を3月発売、「Where Are We Now?」のPV公開
http://www.davidbowie.com/vision?videopremiere=true
http://www.davidbowie.com/the-next-day
PVを観て目を疑った。私はとんだ思い過ごしをしていたのかも知れない。
3分を過ぎたあたりの約7秒間デヴィッド・ボウイの全身が映る。彼のカムバックを確信した。
2004年秋の心臓手術から一昨年までの彼の映像や写真を見る限り、術後の経過が芳しくないんだろうと勝手に思い込み心配していた。正直、<生きる屍>そんな言葉までが飛び出て頭の中でループしていた。
でも、
「Where Are We Now?」の映像センスや彼の芸術作品は趣味じゃないが(余計なひとこと)、PVを見る限り、目も当てられないほど変容してしまっていた様子など殆ど窺えない 。いや、微塵も無い。絵画や造形といった芸術活動に勤しむ一方で、病後の老体に鞭打って肉体を改善または改造したに違いない。そして、ニューアルバムがリリースされるとは…恐れ入る。
見事に蘇ったボウイに拍手を送りたい。
知らぬが仏
とうとう見つけた!と言っても、或る検索から偶然辿り着いた。
デヴィッド・ボウイ(DB)のマリリン・マンソン(MM)に対する発言。
ずっと燻り続けていた記憶が明らかになった。
そう、これだ。これを読んでいたんだ。
私は、DBの応答を鵜呑みにしたんじゃない。そうではなく、
失望したんだよ、デヴィッド・ボウイに。
DBについて当時の自分は彼のことを「秘密主義&腰が退けてる人」と思うようになっていて、それを決定付ける発言になったらしい。何故なら、この発言が載っていた記事にはMMの画像と共に掲載されていて、私はそれらによってMMの存在を知ることになったんだが、デヴィッド・ボウイのマリリン・マンソンに対するその発言は、人を見くびった言い方になるのでは?と感じ、DBに対する不信感が更に募ったからだ。MMがどんな人間だろうと当時の自分にとって知ったこっちゃなかったが、DBの、人を侮るような言い草だけは許せなかった。だから私は悲しかった。それ以来、私はDBから距離を置いた。2004年の来日公演には行かなかった。そうかと言って、MMについて調べようともしなかった。多分、DBから自分が離れていく寂しさをこれ以上味わいたくないと思ったからだろう。できることなら、私だってデヴィッド・ボウイのことを美化し信じていたかった。
http://www.geocities.co.jp/MusicStar/2664/interview.html#10-3
チキンの遠まわしで言い得て妙な皮肉発言だ。ダイアモンドドッグスツアーで、大きな十字架に横たわり掲げられる演出をしたボウイ当人であっても、アンチクライストスーパースターと言い切る人物を認めるわけにはいかない。そりゃそうだろう、世界を敵に回すことになるからだ。一挙に台頭したものの当時としては出世街道を約束されてもいないMMに関わりたくなかったんだろう。
マリリン・マンソン(MM)の自伝には、トレントは色んな意味で兄のような存在になっていたと書かれている。が、自伝によると、生みの親でもあり乱痴気騒ぎや同じ釜の飯を食ってきたも同然の苦楽を共にしたトレント・レズナーに、結果、マリリン・マンソンは裏切られてしまう。
或る記事によると、彼等に亀裂が走った最初の発端は、その自伝こそが原因とのことだ(自伝 Long Hard Road Out Of Hell はあとちょっとで読破)。
*因みに、私がトレントを知ったのは数年前。デヴィッド・ボウイの「I'm Afraid of Americans 」の動画で。同曲が収録されているアルバム「アースリング」はリリース当時に買っている。が、聴き込んだ覚えも無く早々にお蔵入りになったらしい。
*DBにこんなことを言われた当のMMはそれを知ってか知らずか?知って知らぬ振りを決め込んでいるのか?は知らないけれど、MMはモラルを以って大人の対応をしているんだろう。
*DBのこの発言を知った当時の私が相当なショックを受けたんだとういことを今こうしてハッキリと思い出した。あの時の私はボウイに失望しながらも、事勿れにすることで、ボウイの発言=罪を私が被ったんだ。その後、消えない不信感が私をボウイから遠ざけ空虚な年月を送らざるを得なくなり現在に至った。罰は、私に与えられたのだ。
そもそも、私のボウイ熱は徐々に下降線を辿っていたんだと思う。何故なら、アルバム「レッツダンス」以降、彼の作り出す音楽に期待しながらも結局私にとっては魅力を感じない楽曲が目立つばかりで、それは何も私だけでなくボウイマニアの或る知人も同じで、その知人から渡された私が持っていなかったアルバム「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」がある。つまり、お互いこのアルバムは乗り気じゃなかったというわけ。私が持っていなかったのは、買わなかったからであって、何故購入しなかったといえば、ラジオで聴いてその気が失せたから。因みにアルバムジャケは信じられないぐらいにダサい。だいたい、レッツダンス以降のジャケはダサい。それに併せて楽曲も魅力が無い。音楽と視覚的イメージは切っても切れない証拠のようだ。そしてそれは、それ以降のアルバム全てに言えるのだ、私にとっての場合はね。
*しかし、事実を改めて認識した今、肩の荷が下りたような寧ろ爽快な気分だ。
*そして今私は、巡り合わせというものを感じている。

