つづき
鰭ヶ崎へ
坂をじわりじわり上っていくと
墓地だけど
その先に
大仏様
流山にも大仏があるだなんて
鎌ケ谷よりは大きそうな
小さくても大仏「高さ4メートル(台座を含めると総高約4.9メートル)」
日本で一番新しい大仏「2022年(令和4年)」
東福寺の阿弥陀如来坐像(鰭ヶ崎大仏)
こっちは奥の院
向かいが東福寺
グーグルマップには「死人坂」と表記されている
裏階段
車の上がれる坂もある
入り口は4つ存在する
真言宗の守竜山証明院東福寺
弘仁5年(814年)に弘法大師が開山
龍の伝説がある
鰭ヶ崎の鰭とは海竜王のセビレのこと
とすると頭と尾と手足、そして逆鱗もあるのかも
と妄想してしまう
「この山は東方の福田であり、薬師如来が常住すべき土地であるから、瑠璃光仏を彫って寺を建てて欲しい。」
これが東福寺の名の由来
平将門と藤原秀郷の伝承も残る
荘田500石
まず気になるのは
中央にある灯篭の白虎と青龍が逆になっている
北の玄武・南の朱雀・東の青龍・西の白虎だが
江戸川のある西に青龍が刻まれ
東に白虎が彫られている
江戸川は青龍、水戸街道は白虎、三輪野山は玄武、
五色に輝く美しい池(新田)は朱雀
だけど・・・
そして拝殿に龍と狛犬があるのは一般てきだが
虎に笹の彫刻があるのは希少な方
象と獏あるのも珍しい
ここの彫刻は見ごたえある
隣の朱色の中門へ
左甚五郎作といわれる「目つぶしの鴨」
日光東照宮の眠り猫もそうだけど
裏も大事
その後ろに龍
右向き
裏には尻尾が見える
セビレは見当たらない
なんのメッセージだろうか
伝承によればこの鴨が夜中に田を荒らしているので
目に釘を打ったら鎮まったとされる
阿吽で2羽セットになっているが1羽見当たらない
妄想では荘園制度時代の京都の賀茂一族の年貢の取り立てが厳しかったので
龍の一族が一矢報いたのではないか
加は流山に、茂田井は三郷に地名が残る
三輪野山の茂呂神社も怪しい
辰巳の方角(南東)に「辰巳稲荷大明神」
竜と蛇の組み合わせ
寺に神社に違和感あるけど
昔は神仏習合
実際何の神社と習合していたか気になる
そして
平将門を討伐した藤原秀郷の祈願したという伝承がある
天慶の乱(940年)の際、平将門の討伐を命じられた藤原秀郷(俵藤太)が、この寺で27日間身を清めて祈願を行いました
そして
大蛇の依頼で大百足を退治したという絵馬が奉納されている
この伝説で「俵藤太」を名乗る
「いくら食べても尽きない米俵」を龍宮から授かったという伝説
藤原氏の長男(太郎)」を意味する「藤太」と、
彼にまつわる「伝説の米俵」に由来
大黒天に比喩されている根拠
後に彼の子孫が岩手の平泉で藤原北家を築くのだが
彼が英雄として祭られていない
なぜだろうか?
日本の文化は敗者の祟りを恐れ祭るものなのか
将門は下総国、秀郷は下野国
真言宗の成田山新勝寺と東福寺は同じ系列だけど
こっちの方が古い
将門を祭った神社は成田山を嫌う
桔梗もタブーで植えない
将門の正義は、都の平安貴族の年貢の取り立てが厳しいので
関東に新皇となって独立国を創ろうとしたが弾圧されてしまった
地元の民もどっちに付くか悩ましい選択に迫られた
真田家はどっちが天下を取ってもいいように分断してそれぞれについて子孫を残した
藤原→平家→源氏と時によって権力者が変わってきた
なんかしらメッセージが残っていそうだ
こちらが表
昔はもっと敷地が広かったらしいけど
流鉄と武蔵野線の開通や都市化計画で減ってしまったとか
移動
雷神社(いかづち)
お備社(おびしゃ)が有名
おびしゃとは、関東一円に伝承される正月の行事「歩射」がなまったもので弓による神事のことを言います。弓矢によって邪悪退散と、豊作祈願をします
弓と馬と槍と剣は武士の芸事、武芸
こういう文化が残っているとは関東武士だった証
気になるのは最後まで直線ではなく
鳥居をくぐると少し曲がる
あえてなのか
武術の神といったら鹿島・香取なのだが
この周辺では見かけない
祈願満願の日の午の刻、宝殿の扉がひとりでに開き、白羽の矢が東に向かって飛んでいき、雷が響き渡るような不思議な現象が起きました
これは藤原秀郷と関連があるのではと妄想する由縁
裏手へ
この神社は創建は不明だが、明治6年(1873)に六社合祀
祭神は「大雷神」
常磐線の方に室町時代創建の「東雷神社」があるも関係は不明
おびしゃ(お歩射)は、7福神にちなんで7軒で持ち回りの当番制
当番の初戸(ハナト)は大黒様になり赤鬼と青鬼の持つ的に矢を放つ
時代とともに少しづつシステムが変わってきている模様
武神といったら毘沙門天だけど、大黒天に引かせるなんて
俵藤太としか思えない・・・
思井へ
つづく













































































