こちらには数々の記念碑や記念塔があり、興味深かったです。
まだ他にも碑があるのですが…とりあえず2基ほど気ににりました。
私の身長より高さがあり、周りをチェーンで囲われている『澤原為綱翁之像』です。
像?は無いようで、台座(の一部?)だけ。
このレリーフは、明治期?大正期?
こちらが正面になります。小さな銅板には、このよう記されていました。
この記念碑は 昭和八年澤原為綱翁遺徳顕彰会により 二河公園の一角に建てられていた銅像の台座の一部を移転したもので 銅像は第二次世界大戦中供出された
このたび 広島呉道路建設によるスポーツ会館移転にともない翁の業績を伝えるため この地「歴史の見える丘」へ建立したものである
昭和五十八年十二月
呉市長 佐々木 有
なるほど。銅像は二河の方にあったけど、供出されて現在は無いと。
どんな銅像だったのか?
資料等を探したら、当時の写真が残っていそうですよね。
供出される前の写真って結構残っていたりするので。
てか、澤原為綱さんって、どんな方なのでしょうか?
石碑の裏側に刻まれているっぼいのですが…
調べてみましたので、簡単に…
天保10(1839)年生まれ、大正12(1923)年4月8日没。
日本の公共事業家・政治家・広島県多額納税者・貴族院多額納税者議員・崇徳銀行頭取・広島県農工銀行取締役等。
もう一基は、こちら。
『正岡子規句碑』になります。
昨年の春に訪ねた『長迫公園』にも、別の句だけど正岡子規句碑があったような?余裕が無くてスルーしてじいましたが…
呉港
呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす
子規
近くにあった説明板には、このように書かれていました。
この句は、明治28(1895)年3月9日に、友人 古嶋一雄が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗り組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ三句のうちの一句です。
当時は、広島と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、子規は宇品港から船で呉の川原石港へ向かいました。呉軍港の入口のウルメ島付近にさしかかったとき、正面に見える休山山麓の日暮れの情景を詠んだ一句と思われます。
この句碑は、昭和33(1958)年12月に宮原地区有志により、約90m南西の交差点中央部に建立されましたが、道路改良のため、昭和53(1978)年に現在地へ移設したものです。
なお、句碑の文字は、子規の真筆を写真版から復刻した物です。
元々は、交差点中央部に!なんて場所に建立されていたのでしょう!
…夜は見えにくかったことでしょうね〜