2日目は、下関市長府にある『忌宮神社(いみのみやじんじゃ)』へお邪魔しました。
摂末社へも参拝し、その後 境内にある赤い丸型ポストを見付けました。
説明板には、このようなことが書かれています。
郵便ポスト
円筒型の赤いポストが日本で初めて登場したのは明治34(1901)年10月 東京日本橋のたもとで、下関出身の俵谷高七さんが考案したものである。
このポストは昭和34(1959)年6月24日に設置され親しまれてきたが、今後もここに立ち続けるためにどうぞご投函ください。
へぇ〜、下関出身の方が。調べてみると、高七さんは発明家で島根県で出生、その後赤馬関(下関)に移られたようです。
で、亡くなられたのは大正元年9月2日で、明治天皇が崩御されてから約1ヶ月後の事でした。乃木希典氏と奥さまが自刃されたのは、9月13日・・・偶然ではありますが、これから『乃木神社』へ向かう事を考えると、不思議な気持ちになりますね。
乃木希典氏といえば、境内に『集童場場長室』が移築保存されていました。
『豊浦皇居跡』の碑の後方あたりに、建っています。
説明板には、このようなことが書かれていました。
集童場場長室 (しょうどうじょうじょうちょうしつ)
集童場は、長府藩士 福田扇馬(せんま)が文久2年(1862)、南之浜の自宅に開いた私塾 桜柳亭(おうりゅうてい)を母体とし、元治元(1864)年3月、藩士 熊野則之が中心となり、古江小路(ふるえしょうじ)の益田宅を集童場と命名。身分の別なく広く藩内年少の子弟(10〜17歳位)の教育を行ったいわば長府の松下村塾ともいわれた。
へぇ〜。乃木さんも通われた集童場ですか。
通っていた頃は、乃木さんもまさか長府に自分を祭神にした神社が建つなんて、全く思いもしなかったのではないでしょうか。
その『乃木神社』へ向かうべく、西鳥居から『横枕小路』へ。
石垣と土塀に挟まれた、歴史がある小路だそうです。
上の画像の右側が、乃木神社側になります。
軒丸瓦には、乃木神社の社紋が。
右読みで、『乃木神社』とあります。
入口はどこかな〜?と、かなり遠回りしてしまいました。
しかし、そのおかげで、2ヶ所の史跡を巡る事が出来ましたよ。
こちらは『吉岡家住宅』で、中には入れない?ようでしたが、説明板にはこのように書かれています。
吉岡家長屋(長府宮の内町)
下関市指定有形文化財
指定年月日 昭和52年2月16日
建物の所在位置は、江戸時代中期の長府屋敷図に大久保五郎左衛門の屋敷地として記録されている。なお、大久保家は長府藩馬廻として藩の要職に就いていた。
平成8年3月31日
城下町長府まちづくり協議会
長府観光協会
現在も大事に住まわれているのかな?
そして画像下の白い建物付近は、昔『国分寺』があったようで。
こちらの説明板には、このように書かれています。
国分寺跡(長府宮の内町)
聖武天皇が天平13(741)年 国家平安を祈り諸国に建立した国分寺の一つ。当地から北にかけた一帯がその境内地跡、地形上他国のものより寺域が小さく方一町程度と推定されている。
中世は大内・毛利両家氏、近代は長府毛利氏の庇護を受けていたが維新後次第寺勢が衰退。明治23年 本市南部町大隆寺跡に移転した。国分寺跡からは創建時の軒丸瓦や土器などが出土。長府博物館や教育委員会で保存している。また寺宝の『不動明王立像』『十二天曼荼羅図』は国分寺に現存し、ともに重要文化財に指定されている。
はぁ〜、あの写真は、この周辺を歩かれていた時に・・・
当時国分寺跡には、目印になるような松の木が立っていた?芋畑も広がっていた?のでしょうか。
誠にこの辺りは当時の面影が残っていて素敵な場所ですね。まだまだ巡りたい場所がたくさんあります。
が、住民さんか観光客かまでは判りませんでしたが、わりと狭い道を高速で走るのは、本当に止めて欲しい。
アイタタタ
(徐行求む!)