『町内安穏』と刻まれた鳥居は初めて見ました。
目指すは、『東洋鋼鈑』(下松事業所)!
・・・の手前にある、『弁財天社』を見学。
石灯籠に違和感は、火袋が無いから。
撤去したのですね。
交通量の多い(時間帯による)県道366号線は、歩道橋を渡ります。
良い景色✨
お邪魔しま〜す。
こちらは、紅白の煙突がトレードマーク。
1グループ10人以上いましたが、下松市のガイドさんとは別に、構内を案内してくださるガイドさん1名と補助の方も1名同行してくださいました。
わかりやすい資料を片手に、てくてくてく。
あ〜、やっと・・・やっとあの松やお社が間近で拝見できるのですね。
この春(2021.4)には金網越しに見る事しか叶わなかった、あの場所に!
手前に古い橋がありますね。
上流側を見ると、懐かしい『大黒橋』が見えました。
同じ頃に架けたものならば、昭和10(1935)年のものになりますね。どうなんでしょうか。
橋より、こっち!こっちの松を見てくださいよ!
金網越しからは見えなかった説明板には、このように書かれています。
怒龍の松(どりゅうのまつ)
〈 琳聖太子(りんしょうたいし) この地にねむる 〉
この松の下に琳聖太子の遺骸が埋葬されていると古くから言い伝えられている。太子は大内氏の始祖にあたり、日本に仏教を伝来した百済国、聖明王(せいめいおう)の第三王子として生まれ、天智6(667)96才の長寿を全うしてここに眠る。
妙見社縁起によれば、太子は推古5(597)年 日本に初めて北辰尊星王(妙見様)を青柳の浦に祀られ、以来降松(下松)の地名がおこる。
琳聖太子は、聖徳太子から招請され律令政治、仏教伝道の助言者となり、十二階位を進言し、推古天皇から多々良の姓を賜り、さらに太子から七世の孫 正恒(まさつね)が宇多天皇の病を平癒させたことから大内姓と、周防国の都農、吉敷、佐波の三郡を賜った。その後、大内氏は28代義隆を最後としてその栄華の幕を閉じることとなった。
怒龍松の名の由来については詳(つまび)らかではないが、琳聖太子が百済国から龍頭(りゅうず)形の船でこの地に着いたことに因んで名付けられたものと考えられる。なお、またの名を辨天(べんてん)肘付きの松とも呼ばれる。
・・・で?こちらのお社の説明は?
磯部家 矢島家 屋敷跡
江戸時代、磯部家は数代にわたって下松の開作の大半を拓き製塩業を行った。
下松塩は遠く山陰、九州にも販路を開いた明治初年磯部家に代わって矢島家がこれを引き継いだ。
大正6(1917)年、久原氏によって下松に一大工業都市が計画されるや、矢島家は率先、全所有地を譲渡した。
下松地方史研究会
やるね!矢島さん!
ちなみに矢島さんの説明はコチラ☆
矢嶋作郎
天保10(1839)年〜明治44(1911)年
徳山藩士・伊藤三郎治の二男として生まれ、幼名は泰之進、後に湊。幼少から和漢の学を修め、勤王活動中に捕縛され、板倉藩江戸屋敷に3年間幽閉。維新後、旧徳山藩主・毛利元功公の学友として英国留学の直前、矢嶋作郎と称することを許されました。(矢嶋とは、日本の国号=大八州国のこと。それを作る漢=郎、という意味。)明治5(1872)年日本政府が初の紙幣を独国にて印刷するとき監督を拝命。後に大蔵省を辞して銀行や紡績会社設立。東京電灯を創立。続いて、神戸や京都電灯も設立する一方、東京訓盲唖院を設立。東京正則英語学校創立など、わが国の社会福祉事業や教育界にもおよんでいます。
東京電灯社長退任後は住居を豊井村宮ノ洲に移し、和歌の会を主宰。豊井村宮ノ洲は、徳山毛利家の財政顧問の任にあった作郎が、以前に旧藩主・毛利元功公より買い受けていた地なのです。
一方、島田村、小倉甚吉の二男として生まれた専平は、陸軍士官学校を卒業、歩兵少尉から太尉に累進。その間、矢嶋作郎の養嗣子として幸子夫人と縁組。日露戦争の後に軍を辞し、地元から衆議院に立候補・当選して一期務めた後、下松銀行頭取として地方財界に貢献。特に、久原房之助の壮大な夢「大工業都市建設計画」に賛同、その用地買収に尽力しました。
旧徳山藩主から買い受けた土地だったのですね。
下松銀行・・・あったのですか。ほ〜・・・いろいろと勉強になりました。
最後に見学の記念にと、防水バックをいただきましたが、身軽にと小さいリュックで参加したものだから・・・