先日ローカルニュースで、“ 周南市速玉町にある『孝女お米(よね)』像にマスクが着けられた”ということを知ったRieruです★
大変興味深いニュースでしたが自粛中なので、テレビ画面を観て1人ウケるだけでした
が!
5年前に書いた“『孝女お米』さんに感動したっちゃ!”の記事がニュース影響か、アクセス数が増えてる!
ということで、お米さんの像を見たくなりました。
不要不急の外出自粛が叫ばれる中、ゆめタウン徳山へ買い物に行ったついでに寄ってみることに。(もちろん毎回マスクを着用しています)
作者の方も「見た人がくすっと笑うんじゃないかと思って」とニュースで言っておられたし。
お久しぶりです、お米さん。
あっ、本当にマスクを着けていらっしゃる!
背負われたお父さまも☆
マスクを作って着けられたのは、ご近所にお住いの女性だそうで、普段からブロンズ像の周りにお花を生けられる等のお世話をされているそうです。
30年以上も前のマスクを自宅で見つけ、捨てるのは勿体ないとブロンズ像に着けてみることに。
後ろはこんな感じ。
掛ける部分がゴムじゃないから、伸びる心配は無いですね。
ん?
左手首には数珠が。
そして足元には『功』・・・
近くにあった説明板の由来には、このように書かれていました。
お米は寛政3(1791)年徳山(周南)市橋本町に生まれました。父は日傭(ひやとい)で、金左衛門と云い母は河内村の農家茂左ヱ門の息女でありました。寛政8(1796)年お米が6才の時母親を喪いましたので父の足でまといになるため母親の実家である茂左ヱ門方に引き取られて養育されたのであります。享和2(1802)年お米が12才の時父親が病にかかり、その看病のためお米は帰宅したのでありますが、天性純孝なので苦労をいとわず、父親が満足するのを自分の楽しみとし、数々の人の真似の出来ないことを行い父親の孝養にその一生を尽くしたのであります。
当時この立派な行いを見る者、聞く人、皆感嘆してその心がけを賞めぬ者はありませんでした。
その時徳山藩主(毛利広鎮)よりは数回ご褒美として米穀や恩赦を賜ったのであります。
斯くの如く父親に孝養を尽くすこと31年間お米が42才の時、父親の病いよいよ篤く、遂に68才にて父親はこの世を去ったのであります。
お米の哀慕啼哭は人々の感動するところでありました。
後年お米は病にかかり、重くなるや近所の人々に多年の厚恩を、繰り返し拝謝し、次に骨は父母の墓の傍に埋めるように頼み、後の世までも、父親に孝養を尽くさんとする気持ちがしのばれ孝養の至誠に胸うたれたのであります。
時に嘉永5(1852)年3月4日お米は62才を以て逝去し法名を『慈順』と諡し遺骨は川端町徳応寺境内に葬られたのであります。
この至徳の行いに感激し万延元年浦石に立派な碑文が建立せられ碑文は江戸昌平校の安積艮斎(あさかごんさい・・・幕末の朱子学者)氏の手になり書者は書道の大家徳山藩中村春秀が書かれたのであります。
孝女お米150年忌を記念して
平成14年4月 孝女阿米顕彰会
・・・31年間も無償で看病、介護なんて確かに誰でも出来ることではありません。
しかし、もしお米さんが女性ではなく、男性だったらどうなる?と思う事があります。
男性だったら・・・ある程度年を取ったら(昔風に表現すると)嫁を貰い、その嫁に介護をしてもらうのでしょうね。
『主人』、『亭主』、『旦那』・・・シンプルに『夫』で呼びましょう。
・・・アナタ、ブログでは夫のことを『頭領』と表現しますよね?
イテテ
(敢えて!)
あら、像の近くにはお地蔵さんもいらっしゃったんですね。
1番小さいマスクは、ゆめカードぐらいの大きさでしたよ。
お米さん︰「もう、1分過ぎたと思うけど?
・・・お米さんだけに、稲〜。なんちて。
アイタタタ
(もちろん速攻帰りましたm(_ _)m)
✾ オマケ ✾
ゆめタウン徳山で見つけたおやつ(お菓子)で、★が付いているのはトマトの粉末?が入っているようです。
表面から5〜6mm下にはトマトペーストも。
美味しいものを食べて、免疫力を上げましょう←アナタは食べ過ぎ。