山口の神社仏閣★土居神社 仙人台編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



先週、周防大島の土居神社へ参拝したRieruです★

AM 10:52

土居神社?


白鳥八幡宮の右側に鎮座されている神社なんですよ。

鳥居の外側にある手水鉢が、レジン用の型に見えてくるのは私だけ?


イテテ


(めっちゃ大きいレジン作品が出来そうです・・・てかレジン液が足りません)

拝殿は質素な造り。


謹んで参拝させていただきます。

近くにあった説明板によりますと・・・

土居神社由来
   土居神社の御祭神は天の御中主(あまのみなかぬし)神と申し、高天原(たかまがはら)の最高神です。
    もとは北斗妙見宮と申して、土居の東、妙見という所に神社はありましたが、明治40(1907)年に火災にあい、同44(1911)年 今の所に移りました。昭和61(1986)年に再建され、今の立派な神社になりました。
    元文の頃(280年ぐらい前)のお祭りは、正月、5月、9月の各13日(年3回)だったようですが、今は10月の第2日曜に行われています。
    また、お祭り行事では、おみこしの御神幸が海を渡られますが、これは珍しいものです。
    今から約320年以上も前(元禄の頃)の神社の建物は、日良地区でも八幡様をのぞいて、1番大きかったと言われています。
    土居神社(妙見さま)は、土居のみなさんから厚くうやまわれている神社です。
 
と(だいたい)書かれていました。
なるほど、元は妙見宮でしたか。

本殿の前に、失礼します。


え?狭っ!


通っていいのかな?

結局、通らせていただきました。


彫刻が施された蟇股。

ぐるっと境内の中を巡っていたら、こんな石碑を発見しました。


名前が書いてあるような?私では、解読不可能・・・


イテテ


(記念碑?)


解読出来ずにヤレヤレと思っていたら、境内の向こうの海に赤い鳥居が見えました。


ナニ、ナニ、ナニ〜?

はぁ〜、ここに厳島神社ってありましたっけ?


小積にはありますが、ここのは違うようです。
調べてみると、例のおみこしの御神幸が、この鳥居に向かって海を渡られるようです。
男性らがおみこしを担いで海の中へ、ザバザバと・・・


検索したらその祭りの様子が、動画や画像で閲覧することが出来ましたので、ご興味がある方はクリック☆
この鳥居の扁額には『白鳥三社』とあるようで、厳島神社とは関係がないことが分かります。しかし、不思議ですね。

その鳥居から戻って右側を見ると、小さなお社が。


そのまた右側には『仙人台』と記された看板があり、岩の台と、その上に灯篭のような物が置かれていました。人が上に乗らせないようにするため敢えて?


てかこの岩はなぜ『仙人台』と呼ばれているのでしょうか?
近くに明月(めいげつ)上人顕彰会が建てた説明板があり、このように書かれていました。

明月上人
    享保12(1727)年中秋の名月の夜、日前にある願行寺(がんぎょうじ)に生まれ、松山(藩にある)円光寺の法灯を継いだ。
    人間味豊かにして逸話多き僧であった。20歳、京都泉州堺、江戸に遊学し、仏需の学を極め、徂徠の古学を好んだ。
    越後(新潟県)の良寛、備中(岡山県)の寂厳(じゃくこん)と共に近世の三筆と称せられ「明月の書、蔵沢(ぞうたく)の墨竹は松山藩の宝なり」と語り継がれた。
     天覧に浴した「扶桑樹伝」は伊予の巨木、扶桑樹を題材とし、「道後温泉の詩」と共にロマンに満ち、天下に明月の名を高からしめた。
      寛政9(1797)年7月23日 71歳で没した。若くして故郷を離れた上人は、望郷の念にかられ、時折帰島し、自ら仙人台と名付けた平岩に遊び友人と酒を酌み交わし次の詩を詠んだ。

仙人台
在日前東浦俗日之平岩
(日前東浦に在りて俗に之を平岩という)

蒼翠蓋台上    蒼翠台上(そうすいだいじょう)を蓋(おお)い     

洪濤驚台下    洪濤台下(こうとうだいか)を驚かす

時有羣仙士    時に仙士羣(せんしむらが)る有り

乗晴此命駕    晴れに乗じて此(ここ)に駕(が)を命ず

     詩の意味
     青ぐろいみどり、鮮やかなみどりが仙人台の上を覆って、大きな波が台の下にさわいでいる。こうした波の高い折りは波間から仙人が群がっているように見えるが、波が静まってよく注意して見ると、その仙人達は姿を消してもとの平岩だけが見える。

ははぁ・・・明月上人のことすら全く知りませんでした。
調べてみると、この願行寺に上人の銅像があるそうです。
百回忌にあたる明治29(1896)年には、正岡子規や高浜虚子が上人を偲び、盛大な句会を催したのだとか。(あっ、松山繋がりですか!)

その仙人台の右側には、忠魂碑が建っていました。


この忠魂碑からさらに右手を進んで行くと、石鳥居が建っています。


扁額は特にありませんでしたが、鳥居の上にライトが備え付けられているのは初めて見ました。

▽ 向こうの空に飛行機雲!

夜には、柔らかな光を放つのでしょうね。

ふと石灯篭の下を見ると、『潮かけ場跡地』と刻まれた碑がありました。


潮かけ場だったんですね・・・←よく分かっていない。


アイタタタ


(説明板が欲しい今日この頃)