先日ローカルニュースで、光市にある冠山(かんむりやま)総合公園の梅の花が満開だということを知ったRieruです★
別名『冠梅園』で有名な場所で、昨日久しぶりに1人で訪ねてみることに。
わぁ〜、本当に満開・・・
なのか?
梅園に植えられている梅は、少しずつ時期をずらしていろんな種類の花が咲くようにしてあり、長く楽しめるようにしているそうですが、今年はもう一気に咲いていところを見ることができるのだとか。
蝋梅は既にドライフラワーになりつつあるので、お早目に。
梅の花の香りに包まれた梅園から赤い冠橋を渡って冠天満宮の境内に行けるのですが、逆再生(?)で、第一鳥居からお邪魔します。
かなり大きな鳥居で高さは6.3mもあり、柱の周囲は2.2m、柱間は4.2mもあります。
こんなにも大きいので分けられた状態の石も重すぎ、船で運搬中に一部が海へ・・・現在でも戸仲沖には鳥居に使われるはずだった石が沈んでいるかもしれません。
結局造り直して再び運ばれることになったものが、現在建っている鳥居なのだそうです。
この大鳥居は、国道188号線を車で走る時に目立ちますよね。
文久3(1863)年 癸亥(みずのとい) 3月に、こんなに大きな鳥居が建てられたということは、本当に驚きです。
冠天満宮・・・元々は『光井天満宮』だったんですよね。
過去にタイムスリップした時、「冠天満宮はどこですか?」と村人に聞いても通じませんので、お気を付けください。
イテテ
(てか“怪しい者”として捕らえられる可能性が高いです・・・その前にタイムスリップ出来ません)
この石段から拝殿までは、見えている階段よりも先の方が長いで、燈籠の下に杖が用意されていました。
蛸壺に入っているのが良いですね。
(もちろん逆から下りてきたので私は使っていませんが、この杖はもしかしてゴルフのパターとかドライバー?)
その燈籠の横には『光井の井戸』がありました。
そういえばこの辺りは“光井地区”ですよね。
反対側の説明板には、このように書かれていました。
光井の井戸(井の本)
光井の地名について3つの伝説があるが、その1つに天保12(1841)年の熊毛郡光井村風土記(風土注進案)によると、
『当村往占は明光ノ里と唱えたということである。俚伝に曰く昔北辰妙見星宮より降り給ひたるを、即ち産土神(生まれた土地の守護神)と崇め奉った。その頃の村中は人家が数無く、遠近に住居して渓水の流れを汲み呑むといえども、署気の折りなどは水が乏しい故に、里人が祈願をこめ神明の加護を祈ると、不思議な神託が有りて3つのところに井を掘れば、水の湧こと夥(おびただ)しく、それより村の名を三ツ井と改めた。その後天満宮御鎮座の節、彼の井より夜な夜な光を発するので更に光井村と改め、今の地名の謂れがこれである。3つの井はいづれも御共水にて1ヶ所は井の本(冠天満宮の参道の下)、1ヶ所は八海(観音堂の下)、1ヶ所は西方(浴の山本家)というところにあり、皆不思議な名水である。』
というようなことが記されている。
このように3つの井戸を掘り、その井戸が光を発するので光井となったことが今日でも言い伝えられている。
(光市史跡探訪第二集より)
へぇ〜、そんな由来があったのですね。
清潔な綺麗な水って、ありがたいです。
今の時期、特に“手洗いうがい”の徹底が必要とされていますが、タイムスリップした時は多くの村人たちに手洗いうがいの大切さを訴えたいです。
イテテ
(だからタイムスリップは無理であります!)
大鳥居を抜けて階段を真っ直ぐに進むと、まだ新しいげな石鳥居が。
平成12(2000)年10月建立で、わざわざ『再建』と刻まれておりました。
その先は階段ではなく、緩やかな坂道が。
水仙や椿、梅の花等が生けられていて、清々しい気持ちになります。
朝、わりと早めに到着したので、境内には誰もいらっしゃいませんでした。
たった1人しか居ない・・・という贅沢・・・しかも私が1番好きな扁額が迎えてくれます。
撫牛さん︰「わしがお(居)る、モウ〜☆」
あっ、失礼しました、撫牛さん!改めて、おはようございます(お邪魔してます)!
ご存知、撫牛さんの頭を撫でると賢くなるんでしたよね。
私、垂れきったお尻をキュッと上げたいんですよ。
撫牛さんのお尻を撫でたら、私のお尻もキュッとなりますかね?・・・ちょっと、失礼!
撫牛さん︰「キャッ☆そのアングル、NGじゃない?モウ〜( º言º)!」
撫牛さんのお尻はキュッとなってても、全体的に大きいですよね。・・・なんか、ごめんなさい。
撫牛さん︰「アイタタタ・・・」
(でも、結構お尻はいろんな人に触ってもらっているらしく、ツルツルしていました☆)