先日何気なく夕方放送の情報番組『 熱血テレビ 』を観ていたら、少し『 鮎川義介 』さんのことをやっていて、かなりツボだったRieruです ★

しかも明日2月25日 ( 土 ) の13時から、詳しく放送されるみたいで、即録画OK!
どうしてツボだったのか?
先日山口市天花 ( てんげ ) にある『 菜香亭 』を訪ねた時、着物美人のスタッフさんに開口一番に聞かれました。
「 失礼ですが、日立の関係者ですか?」
(´゚艸゚)∴ ぶっ!
「 今、企画展で鮎川義介のことをやっておりまして。」
すみません、無知ッ子で

ど、どういう方ですか?
イテテ
( 日立さんとは無関係な私は全く存ぜず )
『 山口市大内生まれで、日本産業の近代化に尽力した日産コンツェルン創始者 』らしいです。
ほほう・・・ってかすみません、日産コンツェルンって何ですか〜?
日産自動車なら知ってます。
『 日本の財閥の1つで、鮎川財閥 とも呼ばれる。日立鉱山 ( 久原鉱山・日本鉱業・ジャパンエナジー・新日鉱ホールディングスを経て現在のJXホールディングス ) を源流として、機械・銅線部門を独立させての日立製作所などを加え、持ち株会社・日本産業のもとにコンツェルン化した戦前の財閥。
製造業に関しては三菱、三井などの先行財閥をも凌駕する規模を築き上げた。
反面、金融・商事部門は弱かったため、戦後は解体されたまま資本的な再結集は行われず、源流企業の日本鉱業も日産の名を継がなかった。
自動車部門だった日産自動車が日産の名を残す後継企業としては突出して大きいため、現在は同社のグループのみを指して日産グループと呼ぶことが多い。』
ハァ。
規模が大きすぎて、イマイチようわかりませんが、とにかくスゴイ人ですね

そんな方の企画展を偶然観ることが出来て、本当にラッキーでした。
ってか、なぜ菜香亭で義介サンの企画展を?
山口市出身の・・・しかも鮎川財閥のドンですから、例外なくこちらにも通っておられたそうです。

黒いスーツに、斜め縞のネクタイを締めておられるのが義介サン・・・ん?この玄関は!

さっき私もいた場所です。
移築されているとはいえ、当時の面影を残しておられました。
お写真が数枚展示されていたので、当時の様子がよくわかります。

77歳の義介サン。
そして82歳の義介サン。

どちらも菜香亭で撮影しておられます。
86歳で亡くなられる前・・・入院する前日、お孫さんの純太さんを枕元に呼んで、こんなことを言ったそうです。

「 私の人生は失敗でございました あと3年あれば 私もいろいろな経験をしてきたので もう一編やろうと思うことができるような気がします

しかし時間がありません できるならばあと3年命をもらいたいと思っています 」
その時純太さんは、なんとなく祖父に『 お前の命を少し分けてくれ 』と言われたような気がしたそうです。
さ、3年か・・・
祖父にそんなことを言われた純太さんは現在57歳で、『 テクノベンチャー 』の社長をされています。
スタッフさんが教えてくださったのですが、杉田かおるさんとご夫婦だった時期があるようで、心底驚きました!
ほら、私って芸能情報に疎いから〜。
イテテ
( いや、本当に本当に知りませんでした!)
しかし義介サン、一体どんなことが失敗だったのでしょうか?
気になります。
こちらの展示されていた家系図を見てみると、大叔父に井上馨サンがいることが分かります。

当時鮎川家は貧窮していたそうで、義介サンが小さい頃から目にかけていたそうです。
え?義介サンが?貧窮?
鮎川家は毛利藩 ( 萩藩 ) の武士でしたが、義介サンの父 弥八の両親は早くに亡くなったので親戚に預けられ、明治維新後は没落しました。
維新政府では多くの長州出身の軍人が重用されましたが、弥八パパは軍役に耐えられず ( 身体虚弱?) 脱退したため、出世は叶いませんでした。
義介サンの母 仲子 ( ナカ ) と結婚した頃には、産湯に使うタライが無くて、実家に借りたくらい・・・
この仲仔ママの母 ( 義介サンから見たら祖母 ) 小沢常子さんは井上馨サンのお姉様でした。
弥八パパは馨サンの口利きで先収会社 → 県庁など → 防長新聞の会計係をして生計を立てていましたが・・・士族気質が抜けずに無駄遣いした挙句、( 家計が苦しいと ) 仲子ママを責めていたとか。
そりゃあ、馨サンが目にかけますよね

うぉぉー、ワシの可愛い姪っ子がー!
そんな可愛い姪っ子の息子 義介サンの小さい頃は腕白 ( わんぱく ) だったそうですが、その後 “ ビリケン神父 ” という素晴らしい人物に出会い・・・の話はまた機会があれば m(_ _)m
その後いよいよ家計は苦しく → 兄弟は次々と養子に → 借財の肩代わりに弥八パパが見島炭鉱で働くことに → 家族全員九州へ → 義介サンを残して・・・
あっちゃ〜。
1人になった義介サンはどうなるの?どうするの?
尋常中学校卒業後、17歳で山口高等学校豫科 ( よか ) 二部に入学します。
豫科二部・・・旧帝国大学進学希望者で工学を希望した者が進学するらしいですが、工学?
当時、日清戦争の勝利に満ちていた若者の傾向は軍人か政治家でした。
しかし馨サンが、こう助言しました。
「 政治家が多過ぎる、あんな空疎な学問をしてもはじまらない。わしも政治家になったのは間違いだと思っている。諸君は国の富を増やす実業家になりたまえ、小野田の笠井頂八のように 」or「 エンジニアになれ 」
なるほど。
少数派だったエンジニアになるべく・・・いや、勉強以外のこともしっかり学ばれたようですよ。

第2代校長だった北条時敬の校宅で暮らし、書生として雑巾がけやお茶運びなどを経験しました。
その頃の教員は馨サンの援助で出来た防長教育会の影響で、中央に名の通っている者ばかりが集められていました。
私的に名前がツボだった北条時敬校長は学習院の校長になっているし、他の先生方も書けばキリがないほど凄い面々です!
その後は第3代校長の河内信朝宅に下宿 → 高校卒業後、東京遊学 → 東京帝国大学工科大学機械部 → 卒業後 馨サンに三井財閥入りを勧めましたが自分の血筋と学歴を隠し、これまた馨サンの紹介で芝浦製作所 ( 現 東芝 ) 『 一職工 』として就職しました。
その後は・・・馨サンや他の凄い人達の影響を受けて鮎川財閥のドンになりました・・・って割愛しまくって、すみません!
戦後は準A級戦犯として巣鴨拘置所に送られたり、参議院議員になったり、まさに波乱万丈の人生でございました。
ご興味がある方は、明日の13時から放送の『 産業ユートピアを夢見た男 鮎川義介 』をご覧くださーい。

掘雅昭さん著の本も合わせて読みたいですね♪
さてさて。
例の家系図を下に辿っていくと・・・純太さん発見!

お母様の鮎川正子さんは、お名前こそ記載されていませんが、美智子皇后の中高大のご学友でした。
現在は父 弥一さん、母 正子さん共に他界されております。
よくよく見ると、

義介サンの曾お祖父様と同じ名前なんですね。
最後に、おごうさんが書かれた『菜香亭紳士録 おごうさんの政界裏話 』から、チラリ。
『 鮎川義介ちゅうのは立派な人やったいね。私の叔父が東京の鮎川家の台所に入って奉公しよったから、わしもしょっちゅう行きよったんですがね。うちの親父がね、死ぬ前に「 物のひとつも残さんじゃった 」ちゅうて悔やんだら、鮎川さんが「 板場さんにつけた腕前がね、それがお前さんの遺産じゃ 」ちゅうて、それぐらい深ふものを考えちょる人やったねえた。
菜香亭のすぐ前にも一時、住んでたことがありましたし、鮎川家の墓が洞春寺にあるもんじゃったから、ここへもよう来ておいででした。
「 山口は金がかかるから 」ちゅうて地元の人を余り好まんかったですね。ここへ来てもじっとして、人に会うちゅうことはなかったねえた。政治家じゃなかったからよ、根は。林兼に行ってみたり、自分の得になる商売の話には熱心にあちこち行きよったが。それ以外は相手にしとらんかったです。その辺は徹底したものよねえた。
墨絵がじょうずやし、字もじょうずやったね。わしらは「 お上、お上」と呼んでいましたね。殿様と一緒ねえた。奥さんは「 大奥さん 」でね。良き時代ではありましたね、あのころは。 』
そういえば『 大奥さん 』って、どんな方?
京都府出身で、高島屋創業家 飯田藤二郎の長女さん!
華麗なる一族すぎる〜

ついでに岸信介サンとも親戚よ!

アイタタタ
( 義介サンの従兄弟の娘さんが岸サンの長男に嫁いでおられます・・・その娘さんのお名前が偶然?仲子さん ☆ )