長崎リプルクラブ -4ページ目

長崎リプルクラブ

子どもの資質・才能を
育てる方法

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ぼくのために

あんなにがんばってくれたんだから
自分をせめないで。

ぼくは、幸せだったんだから。

なかないでね。
笑っていてね。
いつも笑っていてね。



 帰りの車の中ではずっと泣き通しだった。
夫は、終始無言のまま車を運転していた。


夫に支えられながら家に着くと、「何で、どうして」と
呪文のように繰り返した。


何故、私達がこんな目に遭わなければいけないのか、
どうして貴大があんな姿に。
暗闇の中に閉じ込められて、そこから一生出られない
ような絶望的な気持ちだった。


 その夜はまんじりともできなかった。
障害や病気を抱えたあの子をどうやって育てて
いけばいいのだろう。
周囲からどんな目で見られるのだろう。
いや、それより貴大の将来はどうなるのだろう。
自分の障害に気づいたときのあの子のショックは、
どれほどのものだろう。


結婚はできるだろうか。
ただの一度でも恋愛はできるだろうか。


 翌日も翌々日も、一日中貴大のことを考えていた。
眠れないし、食べられない。
夕食の準備さえできなかった。
私の精神状態を心配した夫が、気晴らしにドライブに
連れて行ってくれたが、空を眺めてはため息をつき、
自分の両手を見ては泣いた。


私は、結婚をして子どもの顔を見ることもできたから
もういい。
けれど、貴大はこれからだ。
代われるものなら代わってやりたい、私の両腕を
切り落としてでも、と思った。
あの指で鉛筆を握ることはおろか、箸を持って
食事ができるとはとても思えなかったからだ。


10ヶ月もの間待ってやっと恵まれた念願の男の子。
あの子が将来抱えるであろう問題を考えたとき、
苛酷な人生を背負わせてしまったという自責の念に
かられ、2週間ほど面会に行けなかった。


障害者の親になること、ならなくてはいけない現実を
すぐには受け入れろことができなかったというのが、
正直な気持ちだったかもしれない。


私は毎日泣き暮らし、泣いて泣いて、
涙が乾くとまた泣いた。



 翌朝、重い足取りで病院に向い、手術時間の30分前に
着いた。
手術室に向かう貴大を、未熟児病棟の廊下で待った。


 予定より数分遅れて術着ののままの医師と看護師さん
に付き添われて、保育器の中に入った貴大が運ばれて
来た。
私達は椅子から立ち上がり、貴大の顔を一目見ようと
保育器の中を覗き込んだ。


酸素チューブを付け、器官カニューレを挿入された
貴大は、チアノーゼ色で呼吸とも言えない呼吸を
して喘いでいた。
余程、苦しかったのだろう。
手足をバタバタさせて、術着から貴大の両手が
見えそうになった。その時夫が、


「手を見せないでください!」と叫んだ。


医師は慌てて、しかし、上手に寸時のところで手を
出そうとしていた貴大の両手を術着の上から押さえた。
10秒程の対面だったと思う。
医師は、「今から手術室に行きますから」と言って
急いで連れ去った。
夫は「たか、頑張れよ」と声をかけたのだが、私は、
胸が詰まって何も言葉がかけられなかった。
生まれた時より小さくなっていたように感じた。


 手術は2時間で終了し、成功したということだった。
手術の経過説明を受けた後に
「子どもに逢いたいのですが」と申し出た。
母親だけならということで、面会を許可してもらった。


 消毒をしてガウンテクニックをした後に、未熟児室の
中に案内された。
中央にある保育の前に立ち止まり、婦長さんが、
「貴ちゃん、お母さんですよ。逢えて良かったねえ」と
言われた。


私は、腰をかがめて保育器の中を覗き込んだ。
貴大は、両目を閉じていた。
顔を何秒か眺めた後に、覚悟を決めて目線を右手に
移動させた瞬間、私は言葉を失った。


涙だけが、床にボトボトとこぼれ落ちた。
貴大の障害を初めて目にした時の衝撃は、生涯、
忘れることができない。


私はこの後、とっさに保育器の左側に回った。
左腕を確かめるためだ。
障害が右手だけなら 左手が使える。
箸も鉛筆も左手で持てばいいと思ったのだ。
しかし、左手も同じだった。
障害は、両手にあったのだ。

 貴大は、今まで閉じていた目を急に左目だけ開けて、
私にこんなふうに訴えた。


「お母さん?逢いたかったよ。
ぼく、誰も恨んでいないよ。
だから、ぼくを見捨てないでね」と。


左目に涙をためて、それは、確かに哀願するような
表情だった。
こんなふうに産んでしまったのに、
誰も恨んでいないと言う。だから、見捨てないでと。


哀れだった。不憫だった。
私は、この時初めて声をあげて泣いた。そして、
それから再び、貴大の両手を見る勇気はなかった。



 生後1か月目に病院から電話があった。


「明日、食道閉鎖の2回目の手術をするので、
両親揃って来てください」ということだった。


手術のことは気になったが、やっと我が子に逢える
という嬉しさのほうが大きかった。
何を着て行こうかと悩んでいる私に、これ以上事実を
隠せないと観念した夫が、言いにくそうにこう切り出した。


今まで言えなかったけれど、障害は、
食道閉鎖だけではないと。


驚きよりも“やはり”という気持ちだった。
顔と両足は何ともなかったのだから、どうかあると
すれば両腕だ。それで、


「両手がないとやろ?」と聞いた。
「いや、両手はあるとけど」と夫は言う。
「指がないと?」
「いや、指もあるとけど」と言う。
「じゃあ、どこがないと?」
「両手もあるし指もあるとけど、手首がちょっと・・・」
と言って、自分の左手を手首の所からだらりと曲げる
仕草をしたあとに首をひねるのだ。


夫は、貴大のような手の障害のある子を見たのは
初めてだったので、それをどう説明いしていいか
わからなかったのだが、説明のしようがないほど
重症なのだと勘違いした私は、夫が首をひねった
ところで怖くなって、
「それ以上、言わんで!」と言って止めさせた。


覚悟していたこととはいえ、どんな両手なのだろうと
思うと怖かった。


 子どもの頃、夜道を1人で歩いていると、暗闇から
得体のしれない動物が突然飛び出して来るような気が
して、何度も後ろを振り返りながら家路を急いだことが
ある。


バサバサと音がしようものなら、数メートルも
後ずさりしたものだ。
この日は、そんな心境だった。
眠ろうとすると、暗闇から何かが飛び出して来て、
とうとう朝まで眠れなかった。





天国からのメッセージ


長男からの定期的に届いていたメッセージです。

長男が亡くなってしばらく経った頃から、自動書記の
ような体験をしました。

最初は、長男を亡くした哀しみのあまり、
自分がどうにかなってしまったのではないかと
思いました。

そのメッセージには未来のことが書かれている
ものもあり、ただ、私の潜在意識がその方向に意識を
するからではないかと最初は非常に懐疑的でした。


でも、定期的に届いたメッセージには、
私も知らなかった事実や意外な答え、長男の希望、
私を励ます言葉が沢山ありました。

もし、これが、私の潜在意識が書かせたものであった
としても、長男からのメッセージと思えば生きる希望が
湧いてくる。
それでいいのではないかと思うようになりました。


誰からのメッセージかということが問題なのではなくて
私が元気になる、生きる希望になる、そのことが
大事なのではないかと。
そして、それは長男がとても望んでいたこと。

母との確執の原因、前世からのつながり、
私がしなければいけないこと、
そんなことも書かれてありました。

ドラゴンハートさんより長男のメッセージを
受け取りました。

長男が定期的に送って来たメッセージは
本当だったのだと再確信することができましたので、
全部は書くことはできませんが、
一部をご紹介したいと思います。

愛する人を亡くした方の、少しでも生きる希望に
なればと思います。



愛する人をなくした時

愛する人が突然目の前からいなくなる哀しみ、苦しみは
筆舌には尽くせません。

埋めようのない喪失感、在りし日の想い出、もう二度と
会うことも話すことも触れることさえできない切なさ。

もっと話しを聞いてあげればよかった。
もっと、健康に産んであげればよかった。
もっとこうしてあげれば・・・

もっと・・・もっと・・・

今頃はきっと一緒に旅行をしただろう。
カラオケに行って、お酒も一緒に呑んだだろう。
今年で何歳になったの?

私だけがどんどん歳を取り、
あなたはずっと時が止まったまま。

どうしてあの子でなければいけなかったのだろう。
あの子を産んだ私が生き残り、未来のあったあの子が
何故、親より先に逝かなかればいけなかったのか、
何故、私たちの子どもだったのか
何故、何故、何故、・・・

何年もの間、その答えの行き場はなく
身体は生きているけれど、心は呼吸をしていないという
状態が長く続きました。

何年たっても想い出は薄らぐことはなく、
記憶の扉に何重にも鍵をかけて・・・
涙が溢れてこないように、後を追っていかないように・・・
そうしなければ生きていけなかった。
ここまで生きてはこれなかった。

でも、ある日、
病気におびえる友人を見て、私はふと気がつきました。
私には死の恐怖がないことを。
仕事や人間関係に悩んでいる人をみて、理解しました。
この先、どんなに辛いことが起きても愛する人を亡くす、
それ以上の苦しみは私にはやってこないことを。

もし、逆の立場だったらどうだったろう。
わが子を置いて先に逝かなければいけなかったと
したらそれも辛くはなかっただろうか。


だから、
もういいんじゃないかなと思う。
自分を責めなくても、いいんじゃないかな・・・と。

今までよく頑張ったと思う。
よく立ち直ったと思う
そんな私を見てあの子ならきっと
「お母さんの笑った顔が一番好き」  
そう言ってくれると思う。

そして、いつも私のそばにいて
守ってくれているのだと思う。

私がいつもあの子を守っていたように。

これから私に、恐怖心や苦しみがないように、
あの子がそうやってずっと、私を守ってくれて
いたのだと思う。

そのことをきっと、あの子は先に逝った自分が両親に
できる最大の親孝行だと思っているかもしれない。

そう思ったときに、今まで流せなかった涙が
とめどもなく溢れてきました。それからやっと、
「生きていこう。与えられた命が続く限り、
 一生懸命生きて行こう」
と、思えるようになりました。

あの子に逢えたとき、
「あたたの分も十分に生ききったよ、
 お母さん、がんばったんだから」
そう言いたいから。

自分に与えられた人生に、言い訳をせず一生懸命
生きていこうと思う。

生きたくても生きられなかったあの子と一緒に。


あなたの愛する人もきっと、同じことを言ってくれる
と思います。

いつも、あなたの傍にいて守ってくれていると
思います。

私達がいつもそうしていたように。

だから、希望を捨てないで、
自分を責めないで、
堂々と生きていっていいと思います。

あなたの愛する人はきっと、
そう言ってくれると思います。




息子へのメッセージ

私があなたに残してあげられるものといえば、
見事くらい何もありません。

入退院を繰り返したので、保育園には10日ほどしか
通園できませんでしたね。
移植後はいろいろな制約があって、随分不自由な
思いをさせました。

私が体調を崩して寝込んでしまい、十分関わって
あげることができなくて申し訳なかったと胸が痛みます。

6年間もいじめられていることが分かった時、
関わってあげられなかった自分を責め、
後悔と哀しみの毎日でした。

私たちの修行のために生まれてきたと思うには、
あまりにも理不尽な現実。

でも、私には少しだけ分かっていたことがありました。
生まれる前、親を選ぶときは自分の意思で
生まれて来るということ。

お兄ちゃんは、この親だったら、自分を見放さない
だろうと思ってここに生まれてきたこと。

そしてあなたは、この親だったら自分の資質を伸ばして
くれるだろうと考えてここに生まれてきたこと。

私が寝込んだことも、その間、折紙で遊ぶしかなかった
ことも、いじめの問題も、あなたの資質を伸ばすために
必要な時間だったと。

今は、私の言っていることがよくわからない
かもしれません。

でも、あなたがもう少し大人になったら
きっと分かると思う。

これからは・・・

自分の資質を活かして自分らしくいきいきと生きていく
人生であってほしいと願っています。

できれば
「ここで両親と一緒に暮らせて僕の人生最高だった」
と思ってほしい。

あなたに残してあげられるものは本当に何もないの
だけれど、お兄ちゃんが教えてくれたことを、私たちが
まだ元気なうちに書き残しておきたいと思います。

苦しいとき、辛いとき、うれしいときにもこれを読んで
元気になってほしいです。


 私の人生の師へ
                感謝と愛をこめて




「おめでとう」と言われなかった -⑧


1週間経って、子どものいない母親だけの退院となった。
退院したらすぐにでも貴大に逢いに行きたかったのだが、
母は、床上げまでは動かないようにと言うし、
夫は面会謝絶で子どもには逢えないのだと言う。


身体が自由にならない私の代わりに、逢えなくても
いいからどういう状態なのか聞いてきて欲しいと
再三頼むのだが、夫は、のらりくらりと話をそらし
病状に触れたがらなかった。


 さすがにおかしいと思い始めていた頃に、
保健所から電話があった。
「お子さんの食道閉鎖の手術はいつされるのですか」
というのだ。「うちの子、肺炎ですけど」 と言うと、
「えっ?」 と黙ってしまい、その後「ああ、そうでしたね」と
いかにも取って付けたような、それでいて “しまった” と
いうような慌てぶりなのだ。


「うちの子、食道閉鎖なんですか」 と言うと、
「何も聞かれてないんですか」 と聞き返され
、「後日、又、かけ直します」 と言って電話は切れた。


 やはり、肺炎ではなかったんだ。おかしいと思った。
夫の冴えない表情も、私が席を立つと夫と母が何やら
小声で話しをしていた事もようやく納得できた。


何故、貴大がそんな病気を……。いても立っても
いられず、医学書を引っ張り出して読みふけった。
他にも何かあるのではないだろうかと思い、
食道閉鎖に関連のある病気も調べてみたが、
途中で動悸がして気分が悪くなり、
布団に倒れ込んでしまった。



 仕事から帰った夫を待ち構えるようにして問い詰めた。
他に病気はないのか、私に隠している事があるの
ではないかと。


夫は食道閉鎖だけだと言った。他には何もないと。
病院に電話をして聞けばわかることだったが、
事実を聞いて平静でいられる自信がなかった。
それに、病院の方には、私にはまだ本当の事を教え
ないで欲しいと頼んであったから、電話をしても無駄
だったのだが。




● 「おめでとう」と言われなかった  -⑦



子どもが転院したことを聞かされたのは、翌日だった。
この日は、子どもが退院して来てからお産の介抱に
来ると言っていたはずの母と妹が駆けつけて来ていた。
初孫と甥っ子の顔が早く見たかったのだろうと、私は
呑気なことを考えていた。


それくらい誰もが平静を装っていたし、私に気づかれまい
と必死だったのだと思う。
障害のことも病気のことも何一つ私には
知らされなかった。
産後の身体を心配した母が、床上げまでは、私に
知らせないようにと夫に頼んでいたからだ。


午後から、「両親揃って来てください」と医師に呼ばれ、
この日、初めて子どもの病状を聞いた。
夫が、事前に私にはまだ事実を伝えないでほしいと
医師に頼んであったので、私が受けた説明は、

「器官が未熟なために肺炎を起こしかけたので、設備の
整っている病院に転院させました」というものだった。


病棟にいるものとばかり思っていたので、
「ガラス越しでもいいから面会させてください」と頼む
つもりだったのに、ここにはいないと言う。
いくら、低出生児といっても、すぐに肺炎になるほど
小さくなかったし、元気そうだった。


何か原疾患でもなければ、肺炎になどならないはず
なのに、その時はショックのあまりそこまで考えが
回らず、医師の説明をそのまま信じた。


病棟内では、新しい生命の誕生を喜び合う家族の姿や、
無事に大役を果たした母親の労を労う言葉が
聞こえてきた。
自分だけが、取り残されていくような気がした。


看護師さんが気を遣ってくれて、授乳の時間になると
カーテンを閉めて、その光景が目に入らないように
してくれた。


私は一日中泣いていた。
赤ちゃんの声が聞こえてくると、貴大も泣いている
のではないだろうかと思い、抱き起こしてあやしたい
衝動にかられた。


今頃、どんな処置をされているのだろうか。
看護師さんは、やさしくしてくれるだろうか。
もっと、健康に産んであげればよかった。


母乳を絞る度に涙が止まらなかった。
床頭台から貴大の足型のついた用紙を取りだして、
眺めてはまた、しまう、そんなことを1日に
何回もしていた。





「おめでとう」と言われなかった -⑥


子どもに面会した時のことを夫は今でも話したがらない
し、その後、どうやって自宅に帰り一夜を過ごしたかも
覚えていないと言う。


普通なら、新しい生命の誕生を喜び、祝杯を
上げているところだ。
しかも、待望の長男である。
あれほど待ち望んでいたわが子が、障害を抱えて
生まれてこようとは。そんなことが、自分の身の上に
振りかかるとは、予想だにしなかったはずである。


子どもは健康に生まれてくるのが普通で、障害を持った
子どもが生まれることをたまに聞くが、それは人事だと
思っていた。


夫は、子どもが産まれたことを身内に報告できずにいた。
駆けつけた叔父が連絡してくれたのは、私の母だけだった。
その母に、電話口で泣きつかれたことを、随分後になって
聞かされた。


貴大は、1回目の授乳で吐乳し、嚥下性の肺炎を併発し
危篤状態となった。
検査の結果、食道閉鎖であることが解り、大村の
未熟児病棟に転院となったのは翌日の早朝だった。
夫が付き添い、酸素吸入をしながら救急車で
運ばれた頃に、私は何も知らずに眠っていた。


両手に障害があるばかりか食道閉鎖まであった。
しかも、肺炎を併発して危篤状態である。
それだけでも充分ショックなのに、他にもまだ障害が
あるかもしれないし、これだけ重症なら恐らく知的障害
もあるだろうと医師は付け加えたそうだ。