「神と人間~安心立命との道しるべ~」 を読み返して・・・ | こわい世の中

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どうしてこんな世の中になった。

お昼休みに もう読み終わったこの本をもう一度 開いてみまして。


どうしても 読み直してみようという時期なのかもと思いました。

文庫版 神と人間―安心立命への道しるべ/五井 昌久
¥315
Amazon.co.jp 

初版 260円!! 昭和28年出版ながら

近年に発売された 多数の精神世界の本と 一線を画す

愛に満ち溢れた書なのですラブラブ

著者は 音楽を志していたのにも関わらず3カ月守護霊の導きにより 

強制的に無我の境地に精神をもっていかれ霊能力者となりました。

のちにこの先生の没後 弟子達によって新興宗教に発展していったようですが・・

(何かに属する事が好きじゃないので)

スピリットはとても素晴しいな~と感じています。

私の すっきりしない思いに答えてくれるかのような
文章が多かったです。

それから私が 今取り組んでいる事


「愛を沢山持った、日常の些細な事に動じない人になりたいビックリマーク


みたいな思いとシンクロしてて いいな~と。




~スピリチュアルなものに関する疑問~


あの人を善くしてあげたいと思ったら まず自らが光に成らねばならない。

光になるとは愛そのものになる事である。

自分の立場がよくなるからとか 人に感謝されたい自分の力を示したいという

不純な心があってはならない。

その場合純粋な愛は自己の想念停止の状態(無我)と同じである ~略~

愛の純粋さの程度に従って 光の強さが違ってくる。病気などの場合


治してやるんだという力みや 不安動揺の心は光を乱し 弱める。


霊能を得たいというのは 我 である。特別な能力を得たい、という心も我である。


そうした我の祈りや願いは 低い霊魂と感応しやすい。その祈りが通って霊能者になったとしても


その人がそうした我の心を捨てない限りその人の運命は最後に行き詰っていくであろうし


その人の力では真に救われる人は出てこない。


真摯な愛の祈りと 無邪気な明るさ運命を信ずる楽天こうした要素が神に通じる心であり


いかに祈っても邪気ある心 暗い心 不安の思いなどあっては神の心に触れる事はできない。


次のように祈るがよい。


「神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、


どうぞ私を愛深き私にならしめ給え」




(これは私が最近 本当によく思っていることだったりします・・・


自分のひがみ根性がどうか消え去りますように・・・とかあせる いつも いつも)


きっと オープニングザハートの影響かなと 思ってます。


てゆうか オープニングザハートのアファメーション 


「私は愛ですのでビックリマークって断言しちゃってるし~ニコニコあせる




~引き寄せの法則と通じる部分~



その祈りを毎日欠かさず続けていることは細かい種種の願い事をする神詣、



仏詣よりはるかにその人を高い境地に導いてくれるものである。



立っていても座っていても歩いていても寝ていてもそんな形の事はどうでもよい。



ただひたすら愛深い自分になる事を祈り続ければよいのである。



定まった一時の祈りよりも常に心に抱いた想いの方がよほど効果がある。



だからいつも泣き言やひがみごとや 恨み言や病気の不安などを思い続けていたら



その想念の作用でその人の運命はいつも暗く不安なものになってしまう。



~ヘミシンクと通じる部分~



祈りとはまず自分の心を空っぽにすることである。


それまでの自分をひとまず捨てて神だけを自分の心に住まわせる事である。


願い事は後回しにすることである。神だけを自己に住まわせればその人に必要な


願い事は全て叶うのである。小我の祈りは その人をますます小さくするだけで


何の徳にもなりはしない。ただ神だけを想う事である。愛だけを行ずる事である。




~マイケルジャクソンの精神に通じる部分~



「愛はすべてを癒すのである。全ての不幸を打開するのは愛の心が根底にある行動である

私の祈りは愛の祈りである。智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。


但し、私が言っている 愛とは 情 ではない。私が書いてきたのは情(執着)ではなく


慈悲(チャリティー)である。」