朝のひんやりとした空気を吸い込みながら、新聞を取りに庭へ出た。何気なく歩を進めたその時、足元で微かな「ぐしゃ」という音。
一体何だろうと目を凝らすと、そこには信じられない光景が広がっていた。庭のあちらこちらに、無数の蝉の亡骸が転がっているのだ。
昨日まで、あれほどけたたましく鳴き響いていた蝉の声が、嘘のようにピタリと止んでいる。まるで、賑やかな祭りの後の静けさのようだ。
そっと一体の亡骸を手のひらに乗せて、しげしげと眺めてみる。透き通った翅はもう動きを止め、小さな体は乾き始めている。短い夏を謳歌した証が、そこに静かに横たわっていた。
蝉の人生とは、一体何なのだろうか。長い年月を土の中で過ごし、やっと地上に出てきたと思ったら、わずか二週間ほどでその短い生涯を終える。
人間から見れば、それはあまりにも儚い時間に思える。しかし、その二週間は彼らにとって、子孫を残すという重大な使命を果たすための、濃密でかけがえのない時間なのだろう。
ふと、人間の寿命に思いを馳せる。八十年、九十年という歳月は、果たして長いのだろうか?私もすでに人生の半分以上を過ぎた。過ぎ去った時間を振り返ると、それは驚くほどあっという間に感じられる
。
もしかしたら、人間から見ると短い蝉の二週間の活動期間は、彼らにとっては人間の八十年、九十年にも匹敵するほど、長く、充実した時間なのかもしれない。ただひたすら、種の存続という使命を全うするために、彼らはその短い時間を精一杯生きたのだろう。
では、自分自身の毎日はどうだろうか?蝉の亡骸を見つめながら、そんなことを考えていた。自分もこの世界に生を受けたからには、何かしらの使命を背負っているのではないだろうか。
そう思う一方で、未だにそれが何なのか、はっきりと掴めていないような気もする。
しかし、今日、蝉の静かな最期を目の当たりにしたことで、改めて時間の尊さを感じた。これからは、与えられた時間をもっと大切に、慈しむように使っていかなければならない。
人は皆、天から与えられた使命、 井天命というものを持って生まれてくるのだと、私は信じている。自分の人生を全うし、その使命を果たしたと言えるように、これからの時間を大切に生きていきたい。そう静かに心に誓った朝だった。
