ある方と話をしていた際、「集団的自衛権なんて、そもそもおかしいだろう。何故、国連憲章に集団的自衛権なんてものが書いてあるのだ。個別的自衛権だけでいいではないか。」というご指摘を頂きました。集団的自衛権に対する私の考え方について先のエントリー に書きましたけど、集団的自衛権の淵源について少しだけ書いておきたいと思います。なお、この件は既に多くの論文も出ているので、私の書いていることはその上っ面だけであることをお断りしておきます。
元々、国連憲章には「地域的取極」ということを定めた章があります。地域的集団安全保障と言っていいと思います。地域的取極によって安全保障を確保していこうということです。
【国連憲章第8章 地域的取極】
第52条
1. この憲章のいかなる規定も、国際の平和及び安全の維持に関する事項で地域的行動に適当なものを処理するための地域的取極又は地域的機関が存在することを妨げるものではない。但し、この取極又は機関及びその行動が国際連合の目的及び原則と一致することを条件とする。
2. 前記の取極を締結し、又は前記の機関を組織する国際連合加盟国は、地方的紛争を安全保障理事会に付託する前に、この地域的取極または地域的機関によってこの紛争を平和的に解決するようにあらゆる努力をしなければならない。
(略)
第53条
1. 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極または地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。
(略)
これ、よく見ていただくと分かりますが、地域的取極を推奨しつつも、最終的には強制行動は拒否権を有する安保理の許可が必要になってきます。国連憲章起草過程で、これにキレたのが米州諸国でした。米州諸国はチャプルテペック協定という、集団的自衛権について定めた協定を締結していたのですが、これが拒否権を持つ安保理の掣肘を受けるようになるのは絶対に受け入れられないということで、特にラテンアメリカ諸国が激しく抵抗したわけです。国連憲章そのものがダメになるのではないかというくらいの局面にここで追い込まれます。
【チャプルテペック協定第1章の3】
every attack of a State against the integrity or the inviolability of the territory, or against the sovereignty or political independence of an American State, shall, conformably to Part III hereof, be considered as an act of aggression against the other States which sign this Act.
これを踏まえて作られたのが、国連憲章第51条の自衛権の項目です。元々はトマス・ホッブス的な自然権として自衛権は捉えられ、いわば「言わずもがな」なので書かれていなかったのですが、上記のような問題をクリアーにするために明示的に書くことで「地域的取極」に付随する問題点の解決を図ったということです。
【国連憲章第51条】
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
(略)
時々、この集団的自衛権の項目は安保理の機能不全を予期したアメリカ合衆国がラテンアメリカへの影響力保持と支配を狙って、ラテンアメリカ諸国を焚きつけて押し込んだという言い方をする方がいますが、史実としてそこまでのことはなかったのではないかと思います。ラテンアメリカとアメリカ合衆国との微妙な関係にかんがみれば、そういう力学が働いたということではなく、純粋に独自性を保持したかったラテンアメリカ諸国の反対がこの規定につながったと見ていいでしょう。
つまり何が言いたかったかというと、国連憲章第51条は集団的自衛権(当時で言えばチャプルテペック協定のようなもの)を位置付けるために作られた規定であるということです。個別的と集団的という区分があるのも、本来自然権として位置づけられ、具体的に規定する必要すらないと思われていたものが、そういう区分と書き方をしないと収まらない国際政治の環境があったということです。
そうやって考えていくと、私なりの幾つかの結論が導き出されます。
① 集団的自衛権は、国連憲章によって最初に出てきた概念(だが、固有の権利とされている。)。
② そもそも、国連憲章第51条は集団的自衛権のための規定であり、集団的自衛権はおかしなものでも何でもない。
③ 起草過程にかんがみれば、個別的、集団的となっているのは、あくまでも確認的に区分した書き方をせざるを得なかった。
そんなふうに見ていくと、少し自衛権論議が違ったものに見えるのではないでしょうか。