集団的自衛権については、これまでも色々な議論があります。私の見解は「あまり個別的、集団的と分けて訓詁学をやるのではなく、自衛権と一体で捉えて、日本を防衛するのに何が必要なのかを過不足なく判断すべし。」というものです。ただ、これだけだとつまらないので、政府見解を追いながら色々と論評したいと思います。


 まず、基本となっているのは、昭和五十六年五月二十九日の衆議院議員稲葉誠一君提出「憲法、国際法と集団的自衛権」に関する質問への答弁書が分かりやすいです。この見解はずっと現内閣まで引き継がれています。


【質問主意書答弁書抜粋】

 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。


 私も、この答弁にあるとおり、「憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」と思います。そこを疑う人は多分誰もいないでしょう。ただ、その論理的帰結としてダイレクトに「集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであ」ると言えるかと問われると違うような気がします。最小限の自衛権の行使は、集団的自衛権を含まないと何故言えるのかをこの答弁書は語っていません。自国が攻撃されていないからでしょうか。多分、そういうことなのでしょう。


 しかし、一番、これが如実に出るのが次のようなケースです。北東アジアの某国から、米国カリフォルニアを標的とした大陸間弾道ミサイルが発射されようとしているとします。しかも、日本に落ちてくる可能性はゼロで、警察権行使としての撃墜すら理屈が立ちにくい状況だとします。さて、その大陸間弾道ミサイルが発射され、日本海にはそれを迎撃するミサイルを備えた海自のイージスがいるとします。その時、「いや、それはアメリカに向けられたものであり、それを迎撃するのは集団的自衛権に当たるから、うちの国はその大陸間弾道ミサイルは迎撃しません」という理屈で日本が何もせず、かつ、その大陸間弾道ミサイルがカリフォルニアに落ちて被害者が出たとしましょう。ご理解いただけると思います。その時に日米安全保障体制はすべて終わります。そんな国に日米安保条約第五条の発動による、米国による日本防衛の義務もへったくれもありません。


 同盟国との信頼関係を決定的に壊して、日本の防衛体制が根本的に成り立たなくなるような状況になれば、そもそもの個別的自衛権の行使すら不可能になるでしょう。上記のような状況を集団的自衛権の行使だからダメと言い、うちは最小限の自衛権の行使だけをやりますと言い続けることは、取り巻く状況をグローバルに俯瞰すれば変なことになるというのは分かってもらえたでしょうか。個々の部分を切り取ってみるのではなく、ここで重要なのは、その判断をした結果として生じるすべての結果を含む全体像なのです。


 私はそもそも、上記のようなケースを純然たる集団的自衛権と形容するのがいいのかということにも疑問を持っています。個別的と集団的の間くらいにあるのではないかなと思うのです。だから、私は冒頭のように「個別、集団の訓詁の学は止めよう」と言っているのです。アプローチを根本のところから変えて、まず一番最初に「日本の防衛」を中心に据える、そして、その目的達成のために必要なものを個別具体的に判断する、当たり前のことを言っていると思うのですが・・・。


 この不毛な個別、集団の訓詁学を止めさせたいと強く思っています。別に憲法改正しなくてもやれると思いますし、あとは理屈の積み上げでここまで来た内閣法制局とのバトルに勝てればいいわけです。難しいんですけど、ライフワークですから、これは頑張ります。