【B29が東京を壊滅させた日】東京大空襲を目撃した祖母のお話(;゚Д゚) | rinputamago3191のブログ

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ミリタリーメカシリーズ第3弾では「B29」を取り上げました。

 

当時、B29は大型爆撃機として卓越した性能を持っていたことをご紹介しました。

 

今回の投稿記事では、そのB29がまさに「大量殺りく兵器」として最大限運用されました「東京大空襲」と、それを目撃した祖母のお話を取り上げたいと思います。

 

1.東京大空襲について

私も専門的知見に頼り、長々と語るつもりはありません。自分で知っていること、また調べたことについて簡単に書かせていただきます。

 

・空襲がなされた日:1945年3月10日

(深夜0時ころから翌日未明までに及びました)

・アメリカ軍が動員したB29:300機以上

・空襲目標:現在の江東区、墨田区、台東区、中央区

(関東大震災で大火災を起こした下町が標的になりました)

・空襲による罹災者:100万人以上

・被災家屋:27万戸以上

・死者:9~10万人以上

・行方不明者:数万人

※死者や行方不明者については、正しい把握ができていません。

※死者の中には、当時の在日朝鮮人の方もいました。数千人から1万人くらいの方が犠牲になったようです。

 

この日、アメリカ軍が採った空襲作戦は実に巧妙でした。まさに「計画的大量殺りく」の作戦だったことが見て取れます。

 

まず、B29は攻撃目標の市街地周辺を取り囲むように爆弾を投下し「火災の壁」を作ります。これで、市街地の人々は逃げられなくなるというわけです。

※イメージ図1

 

そして、人々を「火災の壁」に閉じ込めた後、M69「焼夷弾」を雨あられ(32万7000発)と降らせました。


※イメージ図2

 

M69焼夷弾は、日本に木造家屋が多いことから、それを焼き尽くすための専用の「爆弾」です。

 

長さ50センチ、直径8センチほどの6角筒状の形状をしていて、中にはゼリー状の「ガソリン」が詰まっていました。

アメリカが日本を焼き尽くすために、特に開発した兵器でした。

 

こうして引き起こされた大火災は、大規模な「火災旋風」を巻き起こし、攻撃目標周辺にも飛び火して被害を拡大させました。

 

ちなみに、アメリカの資料では、東京大空襲の際にこのような作戦をとった記録は残っていないようです。

 

「そりゃ残すわけないし、残していても公開するわけないよな」と、私は個人的には思います。

 

2.東京大空襲を目撃した祖母の話

 

私の祖母は東京大空襲を実際に経験したわけではありませんが、その惨状を目撃した一人ではあります。

 

祖母が存命の頃、ずいぶん前に聞いた話です。それでも強烈に私の記憶に残っています。

 

東京大空襲の記憶をめぐらせ、言葉を選ぶように語っていた祖母の表情がとても印象的でした。

 

稚拙なイラストでとても再現しきれませんが、祖母のお話を少しご紹介したいと思います。

 

 

その日の深夜は、これまでになくB29の爆音が続いたそうです。

しかし、空襲警報は出なかったようです。

 

地鳴りがするような不気味な轟音は、今でも忘れられないと言っていました。

 

 

しばらくして、遠方から爆音が聞こえてきたそうです。当時、祖母は今の世田谷区に住んでいました。下町方面が真っ赤な炎に包まれ、空もオレンジ色に驚くほど明るく染まっていた言っていました。

 

思い過ごしかもしれないが、人々の悲鳴が聞こえていたような気がするとも語ってくれました。

 

こうした小さいころのトラウマになっている記憶は、本当に思い出すのは辛かったはずです。わずかながらでも、語ってくれた祖母に感謝しています。

 

来月、3月10日で東京大空襲から79年、来年には80年の区切りの年を迎えます。

 

実際に体験された方で、ご存命の方も数えるほどになってしまったことでしょう。

 

大変悲惨な記憶ですが、私はただの「記録」ではなく忘れてはいけない「記憶」として心に留めておきます。