59 連載13・『食糧増産』 | 京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

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視覚障害教育の歴史を研究しています。京都盲唖院、古河太四郎、遠山憲美、鳥居嘉三郎、石川倉次、好本督、鳥居篤治郎、小野兼次郎、斎藤百合、エロシェンコ、楽善会、雨宮中平、点字

(7)食糧増産

 徳島県に「支那事変に工兵としてお召にあづかり戦闘中、不幸敵弾のために左眼貫通銃創にて
失明した」山添彦市という元軍人がいた。この人は狄糧増産に邁進瓩垢訐験茲鮟颪残してく
れた49)。
 
 「軍医殿の手厚い看護により傷も癒へ、昭和十三年十一月三十日、無事に退院致しました。
(略)そうして何か仕事をと思い、草履作り縄なひをやって見ると案外面白く出来ます。私は元
来百姓に生まれた者ですから、家内と共に田圃や畠へも行ってやって見ると大変仕事が面白く出
来ます。(略)此頃では一人前には出来ないがこの時局下、労力不足の今日、食糧増産の一助に
と一生懸命にやって居ります。」これが載っているのは、中央盲人福祉協会の会誌第19号(1
942年)である。ところが、食糧事情は日に日に悪化するばかり、狒?梱瓩離好蹇璽ンはし
だいに絶叫調に変わっていく。1945年になると、山添さんはマスコミにひっぱり出されるの
である。「戦盲の精農家(略)山添彦市上等兵はもゆる再起の闘魂であらゆる荊棘をきり拓き暗
黒から光明へ――そして今では押しも押されもせぬ精農家として一家の柱石となって敢闘してい
る。写真は氏の晴姿である50)」と。

 これほどめだたなかったとにせよ、自宅の庭で芋、豆類、あるいは工業用油の原料となるヒマ
を栽培した視覚障害者は無数にあったと想像される。

 京都府立盲学校でも1944年4月10日の職員会議で狄糧増産瓩魑賃蠅砲靴討い襦「午
後三時三十分臨時職員会議食糧増産対策トシ空地利用協議会開催、校庭開墾ノ役割決定十一日ヨ
リ着手ノ予定」と決定。「四月十一日、火曜日、晴、午後五時限校庭一ヶ所開墾草取」となり、
以後「修練作業畑つくり」が半日行事になってゆくのである。黙々と畑つくりをする視覚障害児
の耳底で、およそ一年前に聞かされた建国大学教授の講話はどうひびいたであろう。「今日日本
の国において一番大切なことは軍需品の製作と食糧の増産であります。ところがあなた方は米粒
一つ作る人ではありません。そこで食を減らすといふ処までいかずともせめて食物に対して好き
嫌ひをいはないといふようなことは眼の不自由なあなた方として、今日最少限度のつとめといっ
てよいでしょう。51)」