檀家という言葉を扱う時、
住職という立場からは
琴線に触れるがごとく
慎重にならなければならない。![]()
かといって、
これに触れずにやり過ごす…
というのはもはや通用しない
局面を迎えているでしょう。![]()
例えば、私が、
「檀家制度」反対!と公然にうたえば、
多くのお寺からの反感を買うでしょうし、
別に他寺院に反旗を翻したいわけでなくても
おおよそそんな立ち位置されてしまう。![]()
賛成か反対か…でケリがつくほど
お寺にとっては簡単ではないでしょう。
しかしながら全てのお寺の共通認識として
少なくとも「檀家制度」は
何かを改善すべきである…
という問題意識はあるでしょう。![]()
そもそも仏教の根幹は「諸行無常」。
ある規範が普遍的に有効である…
なんてことはあり得ません。![]()
日本における古い仕来たりや法律は、
いわゆる制度疲労を起こして、
もはや現代社会にそぐわなくなっている
なんてことは多々あるわけで、
お寺の基盤もまた特別視せず
シンプルに同じ感覚で眺めれば、
制度側から歩み寄る余地は
十分に考えられる。![]()
そして歩み寄る対象は、勿論、
現代社会、そこに生きる人
ということになる。![]()
江戸時代はお寺が戸籍などを扱う
今でいう役所の役割を担っていて、
その背景から成り立つ
既存の檀家制度の構図は、
お寺は維持・継続されなければならない
↓ ↓ ↓
そのために必要な負担を檀信徒が担う
というもの。
もしこのベクトルが逆になれば、
信者さんに必要とされるお寺になる
↓ ↓ ↓
よってお寺が維持・継続される
ということになる。![]()
この方がよっぽどわかりやすい。
お寺がなすべき努力も明確になる。![]()
それは、
「必要とされるお寺になる」
という努力に他ならない。![]()
この努力がゆるぎない大前提であれば
檀家制度をやめようと続けようと、
一つの方法論に過ぎないわけで、
大きな問題にはならない。![]()
檀家制度に纏わる根本問題は、
お寺はその地域にとって必要な存在か?
必要とされるべく努力をしてきたか?
ということだと思う。![]()
したがって、
この問題が取り沙汰される際の
最大の論点は、
檀家制度というものが、
信者のためにあるのではなく、
お寺側の都合でのみ機能してしまっている
という現状に対して、
一石投じたいわけである。![]()
なので、
「檀家制度=悪」という極論で
ねじ伏せるのではなくて、
目線がどこにあるか?![]()
ということ。![]()
問題は、、、
お寺側の視点でしかモノを見れてない
もっと信者さん側の目線にたって
運営を考えていかねばならない
というところに着地する。![]()
これまではお寺側の目線に
偏り過ぎてしまったことは否めない。
「お寺の世界はそんなものじゃない!」
「一般社会とは違う世界なんだ!」
というご意見があることを
百も承知で言わせてもらえば、
もしこの制度を今後も採用していくなら
信者さん側が明確なメリットを享受できる
制度にしてよいと思う。![]()
もっといえば、檀家になることが
とっても魅力的に思える制度。![]()
それでいて個々のお寺によって
多様性があればおもしろい。![]()
少なくとも、
長らくやってきた形態、
つまり、、、
お寺の存続における
安全性を担保する
という目的のみの制度ならば
人はついてこないと思う。![]()
そういう意味で
檀家制度は過渡期にきている。
同時にお寺のあり方も変わる時!![]()
私はこの過渡期に、
人生を賭けてお寺を作りました。![]()
だからこそ、
そのビジョンを明確にしておく
ということは大事だと思う。![]()
記載した内容は、
あくまで私の主観であり、
必ずしも正しいわけではなく、
今後も変わってくることも
十分にあり得る。![]()
しかしながら、あくまで
その一般社会的な目線は変えず、
自分流のお寺づくりに
取り組んでいきたいと思う。![]()
