今日収穫したお化けキュウリとエダマメは、(キュウリは
日曜日には、空いたところにオクラを植える予定です。
この方の言っていることは、凛童舎の設立理念に通じる。私の言いたかったことそのままだ。こういう、自分の言いたいことをすっきり言語化している文章に出会うと、自分で書かなくて済むのでとても得した気分になる。
http://diamond.jp/articles/-/74055
特に琴線に触れた言葉が以下だ。(以下引用)
「日本人は記憶力が良く暗記がとても得意ですが、今やグーグルで簡単に情報を検索できる時代。情報を知っているだけでは価値はないといってもいいでしょう。得た情報をいかに自分の頭で処理し、知恵やアイデアにつなげていけるか。そこがポイントです。」
「だからこそ子供の頃に、失敗から学ぶ機会をできるだけ多く設け、「失敗なんか怖くない、どんどんチャンレンジするぞ」というマインドを育てていくことが必要。楽しくて熱中できるような趣味を持たせるべきだと私は思います。」
「敷かれたレールの先にあるスペシャライゼーションからは、イノベーションは生まれません。イノベーションとは、ルールの中で効率性を上げていく努力のことではなく、ルールそのものを変えてしまうような独創的なアイデアの実用化のことなのです。」
(以上引用)
ただ、最後の「そして、世界を相手にオープン型の人材になるためには、どうしても「英語」が不可欠です。日本語ではダメかって? だって、日本語は世界の人口の1.7%しか使っていない言語です。幅広いネットワークを築くには不向きといえるでしょう。」ということについては異論がある。
確かに道具としての英語は、必要だと思う。でも、それを、何も幼児や小学生のころから慌てて学ぶ必要はない。というより自国語をおろそかにする感性を与える点でむしろ害だと思う。
自国語で饒舌に語れないものが、英語という道具だけ手に入れても、「話すことに内容がないよう!」なんてことになりかねない。
確かに、自国語に文化的蓄積のない国の人々は、早く英語を身につけた方が世界が広がるのかもしれない。饒舌さを実現する手法を学び手に入れるのはそれしかないかもしれない。
しかし、日本語文化はそうではない。英語圏にはない独特の表現や、視点や、感性を持っている文学や詩歌が膨大にある。
日本人しか活用できない日本語文化という鉱脈を全く活用せず世界と戦おうとするのは非常にもったいないと思う。
たとえば、人を説得するのに、理論だけでは反感を買う。そこに絶妙の、できればプッと吹いてしまうような「比喩」があると、一気に共感を手に入れることが出来たりする。
司馬遼太郎は、坂本竜馬はこれは上手かったのだと「遼馬がゆく」の中で書いていた。
どんな比喩を用いるかは、アイディア力だ。そしてアイディアは、ストックのアレンジなのだから。
それにだ。
この人が冒頭でこう言っている。『人工知能の進化に関するニュースが相次いで報道されています。近い将来、ロボットが社会で普通に活躍する時代が訪れたら、人間はもう不要な存在になってしまうのかもしれません。』と。
ならば、近い将来、今の子どもたちが社会に出るころ、かなり優秀な自動翻訳ソフトが出来ている可能性が高い。これがあれば、英語で美しい表現はできなくても、議論には勝てるのではないか?
大前研一氏に近しい人が言っていた。「彼の英語は上手くない。だが議論になったら絶対に負けない。」と。ビジネスで勝つには十分なものが20年以内に登場する気がする。
さらに、
世界で初めてプロを破った将棋ソフトは、次の手を「読む」のではなく、将棋登場以来蓄積された膨大な棋譜の中から、今の局面に最も似ているものを選び出し、その状況でどう指されたら状況がよくなったかで次の一手を決めるソフトだったと聞いた。
たしか、Googleは、世界のすべての文筆物を電子化するのが最終目標と言っていたが、それが実現に近づけば近づくほど、どういう日本語が「人の手によって」どういう英語に翻訳されたかという膨大なデータが活用可能になる。そこから似た状況を選び、類推して訳語を決めるというソフトが必ず登場することになる。かなり適切な自動翻訳が可能になるのではないか?
だから、ぜひ、今の子ども達には、日本語で、興味深いこと、笑えること、感動させることを話せる子に育ってほしい。
「自立」という概念について、一昨日、木曜日深夜「オイノコミア」という番組(たぶん再放送、ピース又吉氏がMCのEテレ経済学番組)を見ていて、新たな視点を得てハッとさせられました。
番組は、「障碍者の自立と経済学」というテーマでした。そこで、ある車いすの方が、こういっていました。
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『自立』の反対語は、『依存』だとよく言われるがそうだろうか?
たとえば、3.11のような地震が起きたとき、健常者は避難するのに、エレベーター、階段、はしご、ロープなどがあるが、自分は、エレベータしか選べない。つまり、エレベーターに依存するしかない。
親の介助なしに生きられない障碍者は、親との太いパイプ1本で生きている。親との縁が切れることは死活問題。だから自立していないと言われる。
友達が1人しかいない人が、その友達と仲違いするのは、死活問題。でも、友達が100人いれば、一人と仲違いしてもダメージは極めて小さい。
人は一人では生きられない。健常者だっていろんな物や人に依存している。リフレッシュのために散歩することだって街に依存していると言えるし、飴玉をなめることだって、お菓子会社に依存している。でも、その依存先が無限にあって、そのパイプの1本1本は髪の毛のように細い。
そういう状態だと、「自立している」と言われる。
つまり、『自立』とは、「依存しないこと」ではなくて「依存先が無数にあること」と言えるのではないか?
だから、障碍者の自立を促すには、依存の対象をどんどん増やし、そのそれぞれへのパイプの太さを細く、つまり、それぞれへの依存の度合いを小さくしていくという考え方が必要なのではないか?
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『自立』とは、「依存先が無数にあること」そして、依存先それぞれとのパイプが髪の毛のように細いこと・・・か。
なるほど、そういう見方もあるか。いや、人は一人では生きていないのだから、むしろそういう見方の方が正しいのかもしれない、と思いました。
そして、その理屈は「子どもの自立」にも言えることではないかと思ったのです。
子どもはもちろん、親とのパイプが生命線です。でも、そのパイプがずっと太いままだと自立心が育たないというのもまた事実でしょう。
親にとって、そのパイプを「細くする」努力というのはなかなか難しいでしょう。でもだから、逆に、依存先をどんどん増やしていくことで、親への依存度を相対的に小さくしていくということはできるのではないでしょうか?
そう考えると、学童保育「凛童舎」の、子ども達に、曜日変わりにいろんな世代・タイプの大人(ボランティアスタッフ)を出会わせるという取り組みは、子ども達の自立心を育てるのにも役に立っているのだと感じました。
以前、「江戸時代には、実の親に何かあったとき、あるいは親の役目を果たさなかったときのために、抱き親、名付け親、など、実の親以外に○○親という仮親をたくさん作ってセーフティーネットとしていた。」と書きましたが、あの仕組みは、子どもの自立を促す仕組みでもあったのかもしれません。
現在の状況を見ていると、母親だけが教育に真剣で、父親はあまり関心を持っていないように感じます。
でも、母親は、その性として子どもに愛情を与えたがる。そして与えすぎる。パイプを太くしすぎる。
「休みたいとか、怠けたいとか、そう思ったら、その時は死ね!鉄矢。それが男ぞ。それが人間ぞ。」などと人生を語り、わが子を突き放せる母親は、めっきり減ったように見えます。
一方、「やりすぎだ。手を出すな、ほっといてやれ。」と男性目線で意見できるはずの父親は、無関心。「たまにはパパと外で遊んどいで!」と送り出しても、パパはゲーセンに連れていくだけ、とぼやいている奥さんもいました。
最近、先日も書いた「勉強依存」の子も増えているような気がします。これも母親依存の一種ではないかと疑っています。自己評価のほとんどを母親からの「ちゃんと勉強のできる良い子ね」という部分に負っている子たちです。
そういう子が、成績優秀な子たちばかりが集まる進学校に進んで、上位の成績が取れなかったら、一気に自己評価を下げて落ち込んでしまうのではないかと心配です。母親も「大丈夫だよ」とは言わなさそうです。
ちゃんと父親が「成績が良いだけじゃちっとも偉くない」と言ってやってほしいものです。
小学校2年と5年の時担任だったN先生を印象深く覚えています。「教科書は机の中に置いて帰りなさい。うちで勉強なんかするな!しっかり遊べ!」
そこは、そもそもテストも成績表もない小学校でした。あれがあったから今の私がある気がします。
もうひとつ、早大理工学部建築学科の学生時代、H教授から言われた言葉。
「君たちが社会に出れば、あらゆる現実が君たちを押しつぶしにかかってくるだろう。その時、その現実が許すあらゆる余地を、隅から隅まで使い倒せるように、今のうちの思いっきり膨らんでおきなさい。」
世の中というごつごつした多角形を包含するほどのでっかい円になっておけ!けして「内接円」になど絶対なるな!という強い励ましのメッセージでした。
さて、今の子どもたちは、しっかり社会を支える側になってくれるでしょうか?ただでさえ高齢者というぶら下がる側の人間が多い近未来日本。内接円ばかり育ったのでは、支える力が心もとない。
母親のベクトルは強いのに、方向性がややずれている。父親のベクトルは弱すぎる。父親が真剣みを持ったとき、やっと父母の合力が、正しい方向を指し示すと思っています。