大人にも必要なように、子どもにとっても「ボーっとする時間」は、本当に大切です。自由な思索の時間。そして、心を弛緩させる時間ですから。

でも、放課後の様な時間を、単なる空き時間=無駄な時間ととらえるお母様が本当に多いと思います。

幸い、凛童舎にお子様を預けてくださっているお母様からは、「何をしていてもいい自由な雰囲気がうちの子に合ってるみたいです。」とか、たまたま面談にみえられたお母様が、ごろ寝しながら漫画を読んでいるご自身のお子さんを見て「いいですねぇ~、こういうの」と言って下さる。

こういうお母様は、まだ少数派ですが、凛童舎が、そういう方々に選んでいただけていることをとても幸運だと思います。

社会でとういう能力が求められているのか肌で感じていて、そして、そういう能力がどういう風に育まてれるのかを直観的に知っている。男性に伍して第一線で活躍されているワーキングマザーにこそこういう方が多い。

今の時代、母が家にいてくれることより、外で働いている方が、子どもにとって幸運なのではないかと、私が考える所以です。

http://ameblo.jp/kosodate-educare/entry-12058483215.html

今日の凛童舍。3時からの男子高校生ボランティアさんと折り紙遊び。

3時までは、女子高生2人、女子大生1人がボランティアに入ってくれていましたが、変質者の目に触れるといけないので投稿を控えました。(笑)


これが彼が折ったミニチュア折鶴です。

ピンセットも使わず手だけで。

「学校の興味が子どもから親へ移っている?」

 

http://wotopi.jp/archives/24071

 

この記事を読んで、私の出身小学校のことを思い出した。かつてっ下記の記事でも書いた。大阪府北河内郡交野町立郡津小学校のことだ。

 

http://www.rindows.jp/2012/01/26/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E6%B8%8B%E6%BB%9E%E8%AB%96-%E6%9C%9F%E5%BE%85%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%A5%AE%E8%B5%B7%E3%81%A8%E5%A1%BE%E3%81%AE%E7%AF%80%E6%93%8D/

 

成績通知表もテストもない公立小学校だった。親が選んだわけではない。住んだところの小学校がたまたまそういう教育方針だっただけだ。

 

私はこの小学校で学んだおかげで、どれだけ人生における価値を得たかわからない。偶然だっただけに、もし出会わなかったら・・・と思うとぞっとする。

 

さて、この小学校、やたらと行事が多い小学校で、運動会も、春の小運動会と、秋の大運動会の2回あった。

 

だが、その運動会は、2回とも保護者観覧禁止で、児童と先生だけで行われた。運動会だけではない。2か月も前から1日の大半を練習に使った音楽演奏会も、観覧者は児童と教員だけだった。

 

(娘の小学校では、体育館が狭く本場を見せられないからと、わざわざ学年別入れ替え制でリハーサルを見せていたことを考えると、学校の姿勢は雲泥の差だ。)

 

というわけで、郡津小学校では、成績もつかない上に親も見に来ない。ゆえに子ども達は、先生の評価、親の評価をほとんど気にせずに過ごしていたといえよう。

 

つまり、小学生でも、学校では「一個人」として生きていたのだ。

 

今はどうだろう。子どもは、親の幸福の道具に成り下がっていないだろうか?

特に母親の。

 

かつて子育ては、「どんな花が咲くだろう?」を楽しみにせっせと水をやり続けるような作業だったのではないか?

 

でも今は、「こんな花を咲かせたい」そういう親の願望のもとで、子ども達が、まるで培養されているように思えてくる。放課後を習い事や各種プログラムで埋められる子どもたちは。

 

昨年だったか、朝日新聞の第一面に「デザイナーべイビー」という言葉が踊った。近い将来、眼の色も髪の色も、親の好みに応じた子どもが作れるという。アメリカで特許が認められたとかなんとか。生命倫理はどうなるのか?という内容だったと思う。

 

だが、デザイナーチルドレンという生命倫理問題はすでに水面下で拡大しているのかもしれない。

 

少なくとも、「僕は何者?」「私はママの人形?」自分のアイデンティティに悩んでいる子どもたちは、現に存在している。

昨日、当方のブログの読書登録をしてくれた方のブログを見ていたらこの記事を見つけました。http://ameblo.jp/jugsato/theme-10085712236.html

何かといえば子ども達にプログラムを提供して、放課後までを「教育」の場にしようとする大人たちが多い中、この方の主張は、凛童舎の考えと全く同じなのでビンビン響きました。

特に以下の4点を、凛童舎も主張したい。

①学童期に自分で自由に、自分で選んでたっぷり遊ぶことは成長・発達に大切。
学童保育の子どもへは、放課後のなので、学校的なことをできるだけ排除させてあげ、自分でやりたいことを取捨選択させることが重要。

②放課後をどう過ごすか?これは、本来子ども自身が選んでいくことだ。
かつて、おそらく、昔は地域社会の機能が今よりも充実していて、地域の中で放牧することが可能だった。

③子どもたちは、どこに行っても教育を受けている。
教育と平行して、教育から離れた時間を子どもに保障すること。
受けた教育を、大人として社会に出る前に、子どもなりの小さな、そして無限の社会の中で、その成果を試す時間が必要なんだ。

④そのときに大人にできることの基本は、「見守る」。
支援や手助けはもちろん必要。でも、基本は「見守る」。

これまで、うまい言葉が思いつかなくて、放課後の「子ども達が自ら学べる時空間の力」という意味で、「放課後の教育力」という言葉を使っていましたが、はっきり「教育」と区別して、別のことばを使うべきだなと思いました。