さて、「ヨン様」のつづきです。当然のことながら、この先、私がどんな話をしようとしているかは、もうばれている思うが、とはいえ、ぜひ、ディテールの、ご自身の考えとの違いをお楽しみいただければと思う。

昔、祖母あたりから言われた記憶がある。「ひと様にご迷惑をかけないように」「ひと様のことをとやかく言わないの」「ひと様に後ろ指刺されないように」などと。「菊と刀」では、日本文化を「恥の文化」と説明しているので、それに従えば、他者に対して恥を搔かないことに注力しているから「ひと様」という概念が出てくるのだという解釈も成り立つが、私はそれだけではないと思う。「ひと様」には、他者への尊敬と、自分も「いっぱしの“ひと”であろう」とする覚悟が込められているような気がするのだ。


しかし現状は、ご存じのように「ひと様」は、ほぼ死語になっている。「ひと様」という言い方をするのはもはや一部の高齢者に限られる。


代わって広く使われるようになったのは、単に「ひと」という言い方だ。この2語には大きな概念の落差があると思うのだがどうだろう?「ひと」では、すでに他者への尊敬は消えている。変わって表れるニュアンスは「自分とは関係ないもの」よって「出し抜く対象」にまでなってしまっているような気がする。


現に日本社会には「ずる」をする人が増えた。生活保護の不正受給問題もそうだ。一方で、悲惨な状況なのに「ひと様のご迷惑はかけられない」と、民生委員の勧めもかたくなに拒み続ける高齢者もいると聞く。


「ひと様」が「ひと」に成り下がって、「ずる」(≒不正な依存)が横行し、本当に必要な人が憂き目を見ている。これから自民党がやろうとしている「生活保護削減」もそうだし、かつてやった「障碍者自立支援法」もそうだ。「ずる」で受給する人が増えたので「ずる」でない人もいっしょくたに切り捨てられる。癌を完全に取り除くために健康な組織まで切り取られるように。


官僚の天下りも「ずる」だ。かつての官僚には、国家を担うとの大きな志と滅私の心があったが、今は、既得権で、楽してたくさんお金のもらえる方に簡単になびく。


私の知る中にも、ご主人経営の会社で働いていることにして、子どもを認可保育園に預け、社会貢献(?)に精を出している女性がいる。憂き目を見ているのは、本当に経済的理由で働きたいのに、認可保育園の空きを待っていて働きだせないママ、あるいは、収支カツカツを覚悟で、高額の無認可保育園に預けるしかないママたちだ。


遡れば、戦前の軍部の暴走も「ずる」かもしれない。司馬遼太郎がある対談で言っていた。「大日本帝国憲法もよい憲法だった。日本人が高い理念と節操を守っていた間は」と。それをその弱点を突いて、政府を「統帥権の侵害」などとの曲解で糾弾し軍部に対する関与を封じ込めたのは「ずる」と言えるかもしれない。憂き目を見たのは国民だった。


「ずる」をしないいっぱしの「ひと」を志す心、他者を敬い自分を律する「ひと様」の心を再生しなければ、ますます最弱者が切り捨てられる殺伐とした社会に、日本はなっていく。


「ひと様」という感覚を、是非とも次の世代に伝えたいと思うのだ。「ひと様」という言葉は使わなくても、その意味するところは理解できる日本人が、今ならまだたくさんいるのだから、頑張れば伝えられるはずだと信じたい。












あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

2013年の凛童舎のテーマは「日本のヨン様を子どもたちの心に
」です。

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今ごろヨン様って、ちょっと古いんじゃないの?今ならチャン・グンソクかせめてイ・ビョウホンでしょおうが・・・なんて声が聞こえてくる。


でも、日本のヨン様は、古びていない、ずっと日本人の心に息づいていると私は信じたい。それが、日本人の精神性の本質であると思うからだ。

新渡戸稲造は、「日本には、道徳の中心となる宗教がないのにどうやって道徳を保っているのか?」と外国人に問われて返答に窮した経験から、その答えとして「武士道」を著したと聞いた。しかし私は、それにずっと違和感を覚えていた。



幕末に渡来した外国人は一様に、東洋の外れの小さな島国の人々の満ち足りた様子に驚嘆した。彼らが目にしたのは、「拡大・成長を追い求めない成熟社会」、「質素倹約を旨とする、つつましくも心豊かな社会」だった。日本人のモラル(礼儀正しさ、勤勉さ、親切、誠実さ、清潔さなど)に驚いたという。


その驚嘆の対象は、武士だけではなかった。庶民を含めた日本人全体だったはずだ。


たとえば、アメリカが、初代駐日公使として送り込んだのが、タウンゼント・ハリスはその日記にこう書いている。

・ぼろを着て、貧しい食事をしていても、彼らは清潔で礼儀正しく振る舞い親切で幸福そうであった。 

・彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。----これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。 

・人々はいずれも、さっぱりしたよい身なりをし、栄養 も良さそうだった。実際、私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。
・私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。


同様のことは、明治17(1884)年頃からしばしば来日した米国の女性旅行家イライザ・シッドモアも、明治10年代に東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者・エドワード・モースも言っている。


日本人は、モラルを善悪としてではなく美醜でとらえる。善悪とは理性の尺度だが、美醜は感性による尺度だ。モラルが感性のレベルにまで深く浸透していることがうかがえる。

その点は、宗教以上ともいえるのではないか?

それらは、日本人全体が持つ普遍的、少なくとも江戸期という長い平和の中で培われた、武士道よりも根源的な何かであると思うのだ。



また、3.11の震災で日本人が見せた我慢強さ、律義さ、道徳心、助け合いの心をみて、多くの外国メディアが「驚嘆すべきモラル」だと称賛を込めて報じた。しかし、これが「武士道が生きているからだ」というのは無理があるだろう。



日本人にはもっとプリミティブな共通の感性が息づいている。そして、それは普段使う言葉の中にあらわれている。言葉に現れるのは、現に存在する概念だけだからである。


私は、そのような日本人のモラルは、「日本のヨン様」に現れていると感じるのだ。(つづく)






冬休みに入って、1日にいくつもの遊びができるようになって、子どもたちも工夫を凝らすようになってきました。


今日は、TV番組「戦闘中」と「ボール鬼」を足したような遊びを考えでしていました。


各自が自分専用のボールを持ってぶつけ合うのですが、あてた箇所、あてられた箇所などによってポイントを得失し、そのポイントで、インターバル中に武器や防護具が買えるというもの。


TVゲームの要素も入っています。


防護具の「盾(座布団)」は、宣言したところにしか使えないとか、ゲーム好きの4年の男子が仕切ってました。


なかなか、面白そうでした。



北朝鮮が人工衛星を打ち上げました。新聞一面に取り上げられて大
騒ぎです。


確かに怖い。脅威です。でもあれ?人工衛星なんて日本
ではいくつも打ち上げているはず。なのに、どこの国も脅威だと非
難してきません。なぜでしょう?


日本が平和国家だと認知されてい
るからではないでしょうか?武器を輸出しないと認識されているか
らではないでしょうか?私は、日本に、人工衛星を打ち上げて脅威だと周辺
国に思われる国にはなってほしくないと、あらためて思いました。

最近、子どもの希望で近所の公園によくいくのですが、昔の遊び文
化が伝承されていないなあとつくづく思ってました。


そしたら先日、ある高学年と思しき女子のグループが「だるまさんがころんだ」
のニューバージョンをやっていてうれしくなりました。「ころんだ
」の部分を鬼が好きな動詞に変えるのです。


たとえば「だるまさん
が髪切った」なら、思い思いにそのしぐさをするのです。そのしぐ
さの最中に「ストップ!」がかけられます。演劇的で、見ていても
面白い。「だるまさんがコクった」のときは、みな苦心してました


僕らの時代にはなかったなぁ。(関西は「ぼんさんがへをこいた
」ですけどね。)


そのグループ、「はないちもんめ」もやってまし
た。遊び文化の伝承に濃淡があるのはなぜでしょうね。