モンテッソーリ教育を保育理念とした学童保育ができるようです。http://clantete.com/afterschool/index.html
東京都心なので成り立つのでしょうが料金も高めです。
実は、私の父はモンテッソーリの研究者でした。大学で幼児教育を教えていました。最終職歴は、京都佛教大学教育学部長でした。
亡き父とモンテッソーリについて話したことはありませんが、私が子ども時代、「父からされていたこと」を振り返って「モッテッソーリ教育」に好印象は持っていませんでした。
ですが、この園を紹介した下記の記事に書かれていることは、わが凛童舎で成し遂げたいと思っていること、目指していることと何ら変わるところがありません。
http://tokyo.l-ma.jp/event/44/5151.html
私は、私が幼い時に父が私にしていたことがモンテッソーリ教育理念に乗っ取ったものだと勝手に想像していたため、モンテッソーリ教育を誤解していたのかもしれません。
さらに、今もモンテッソーリ教育についてよく知りません。なので、以下の論には誤解が含まれているかもしれないことをご容赦ください。
私が今も、一点、モンテッソーリ教育に対して賛同できないと思っているのは、子供の成長に「必要」な「教具」をあらかじめ用意しているということです。それは、すなわち、子供の成長を「想定内」でしか考えていないということであり、やはり、子供の成長を、大人優位の上から目線で見ていると思えるからです。何が「必要」かもあらかじめ決めていることになります。
だとすると、想定外の成長は、文字通り想定していないということになります。
私は、子供の成長は、もっと「偶然の出会い」に支配されていてよいと思うのです。
だいたい、人の人生とはそういうものです。誰の子として生まれ、どんな先生と出会い、どんな本に興味を持ち、誰と恋に落ちるか。すべては偶然の産物です。だからこそ人は誰とも違う個性を持てるのだと思います。
だから、人生の一部である子ども時代も「大人の想定」に支配されない環境に置くべきだと。大人は、ただ、ちょっと長く生きた隣人としてそばにいて、その人の人生がにじみ出た行動によって、その子に「偶然の影響」を与えていればよいのだと。
もちろん、そうすると「モンテッソーリ教育」が「必要」だと思っている何かの能力が育たないまま大人になるかもしれません。
でも私は、何かが足りていなことさえ、新たな何かを生む原動力になると思っています。たとえば、子どもの頃、算数がわからなかったという経験は、「なぜ、算数がわからないか」をよく知る経験となり「じゃあそういう子がどうすればわかるようになるのか?」という方法を生み出す原動力になったりすると。
そういう、すべてを想定せず、子どもの自己成長欲と、人や知識との「偶然の出会い」に預けて、成長を隣人として見守るというのがサドベリー教育だと思っています。
また、モンテッソーリ教育は、教具を用意することなどから、スタッフには、モッテッソーリの方法論に精通した資格者が必要になります。自ずから、養成に時間と費用が掛かり、数も限られ、人件費もかさみ、よって少数の選ばれし者への高価な教育となってしまいます。
それでは、格差社会を助長することになり、そういう社会は、下層になる者にとってはもちろん、上層になるものにとっても幸福社会ではないというのが私の考えです。上層の者も、心の片隅で常に「仮想に落ちることの恐怖」と「下層の者を見捨てている自分は善ではないとの思い」と向き合い続けることになるからです。
凛童舎が考えている仕組みは、子どもたちを見守り、関わるのは、多様な人生を歩んだごく普通の者であればよい。ただ、子どもの一人格を認め、上からではなく横から目線の隣人として一緒にいてくれるだけで良いというものです。