年末になって、喪中はがきたくさん届くようになと、いつも思っていることだけれど、自分もそのうち死ぬのだなと実感させられる。


そこで、私が死んだあと、「いったいあいつはどんな奴だったんだ?」となったとき、手掛かりになることを書いておこうと思う。


というのは表向きの理由。その実、ちょっとノスタルジックな気分になっただけか?


でも、ああ、あれがあったから、今自分はこのような考えや思想を持つにいたったんだなという出来事がたくさんある。


「ダイアモンドだね、いくつかの場面。うまく言えないけど 宝物だよ。あの時感じた、答えは本物。今、私を動かすのはダイアモンド」てな感じ?


その多くは、結構特殊で、普通の人はなかなか体験しないようなことだと思うので、娘や、そのあとの子孫に読んでもらうために書いておくことにすると思い立った。


それで、「私を作りしもの」というテーマで、時間軸とは関係なく思いつく順に今日から書き始める。


そんなダイアモンドの一つを思い出させてくれたのは、一通の喪中はがきだった。(つづく)



今日は子ども5人、今の凛童舎では多い方です。それぞれ、ゆったりと自分の時間を過ごしています。


手前の小5女子はマンガ、このあと、ここでショウイン式学習塾が待っています。

その向こうは、小6女子、宿題がたくさんあるそう。


向こうの、すでに常設となっているハンモックには、小1男子がゆらゆらを楽しみ、ロフトベッドの上では、小1男子3人が、野球盤に興じています。


男の子4人は、公園で発散して帰ってきたところなので、まったり系の遊びです。


今日も平和に時が流れています。


2013.12.16


民間非営利 学童保育園           キッズコミュニティ凛童舎 ブログ


昨日、大学生のボランティアが、ロフトベッドに布を結び付けて作ったハンモックで、今日も1年生3人が、遊んでいます。


仲良く交代で乗って、100回ずつ揺らしてあげてます。


どこかで見た光景だなと思ったら、昨年の夏休みに子どもたちを連れて行ったわんぱく冒険広場に、確かこういうのがありました!


最近、外に行きたがらない子どもたち。寒いから?


部屋の中でだけ遊ぶのはよくないと思うのですが・・・ まあ、仲良く楽しんでいるのでいいかぁ。

昨日は、東部公民館の子育てフェスタに、Café Rindowとして「子ども古着交換会」で出店してきました。うたい文句は「小さくなったお子様の服を大きいサイズと交換しませんか?」です。

皆様から頂いてコミュニティカフェRindowに売っている子ども古着を50着ほど「種」として持ち出し、あとは、各ご家庭がお持ち下さった服を、次々に交換していってもらいました。

30家族ぐらいが、子ども古着をお持ちくださって、それぞれ平均4着は交換していかれたので、概ね120着は流通したと思われます。

「こういうの、助かるわ。子供の服はすぐ小さくなるから」と言って下さったママさんもいて、うれしかったです。

フェスタ自体は、有志の子どもコンサートや、読み聞かせの部屋。児童館からの出張イベントなど、結構たくさんご来場くださいました。チーバ君も応援に駆け付けてくれました。子どもたちに大人気でした。(後で知ったのですが、中に入っていたのは実行委員長のママさんのご主人だったそう。ご苦労様でした。)



民間非営利 学童保育園           キッズコミュニティ凛童舎 ブログ  

 
民間非営利 学童保育園           キッズコミュニティ凛童舎 ブログ


民間非営利 学童保育園           キッズコミュニティ凛童舎 ブログ


モンテッソーリ教育を保育理念とした学童保育ができるようです。http://clantete.com/afterschool/index.html



東京都心なので成り立つのでしょうが料金も高めです。



実は、私の父はモンテッソーリの研究者でした。大学で幼児教育を教えていました。最終職歴は、京都佛教大学教育学部長でした。


亡き父とモンテッソーリについて話したことはありませんが、私が子ども時代、「父からされていたこと」を振り返って「モッテッソーリ教育」に好印象は持っていませんでした。

ですが、この園を紹介した下記の記事に書かれていることは、わが凛童舎で成し遂げたいと思っていること、目指していることと何ら変わるところがありません。

http://tokyo.l-ma.jp/event/44/5151.html  



私は、私が幼い時に父が私にしていたことがモンテッソーリ教育理念に乗っ取ったものだと勝手に想像していたため、モンテッソーリ教育を誤解していたのかもしれません。

さらに、今もモンテッソーリ教育についてよく知りません。なので、以下の論には誤解が含まれているかもしれないことをご容赦ください。



私が今も、一点、モンテッソーリ教育に対して賛同できないと思っているのは、子供の成長に「必要」な「教具」をあらかじめ用意しているということです。それは、すなわち、子供の成長を「想定内」でしか考えていないということであり、やはり、子供の成長を、大人優位の上から目線で見ていると思えるからです。何が「必要」かもあらかじめ決めていることになります。


だとすると、想定外の成長は、文字通り想定していないということになります。

私は、子供の成長は、もっと「偶然の出会い」に支配されていてよいと思うのです。


だいたい、人の人生とはそういうものです。誰の子として生まれ、どんな先生と出会い、どんな本に興味を持ち、誰と恋に落ちるか。すべては偶然の産物です。だからこそ人は誰とも違う個性を持てるのだと思います。

だから、人生の一部である子ども時代も「大人の想定」に支配されない環境に置くべきだと。大人は、ただ、ちょっと長く生きた隣人としてそばにいて、その人の人生がにじみ出た行動によって、その子に「偶然の影響」を与えていればよいのだと。



もちろん、そうすると「モンテッソーリ教育」が「必要」だと思っている何かの能力が育たないまま大人になるかもしれません。



でも私は、何かが足りていなことさえ、新たな何かを生む原動力になると思っています。たとえば、子どもの頃、算数がわからなかったという経験は、「なぜ、算数がわからないか」をよく知る経験となり「じゃあそういう子がどうすればわかるようになるのか?」という方法を生み出す原動力になったりすると。



そういう、すべてを想定せず、子どもの自己成長欲と、人や知識との「偶然の出会い」に預けて、成長を隣人として見守るというのがサドベリー教育だと思っています。



また、モンテッソーリ教育は、教具を用意することなどから、スタッフには、モッテッソーリの方法論に精通した資格者が必要になります。自ずから、養成に時間と費用が掛かり、数も限られ、人件費もかさみ、よって少数の選ばれし者への高価な教育となってしまいます。



それでは、格差社会を助長することになり、そういう社会は、下層になる者にとってはもちろん、上層になるものにとっても幸福社会ではないというのが私の考えです。上層の者も、心の片隅で常に「仮想に落ちることの恐怖」と「下層の者を見捨てている自分は善ではないとの思い」と向き合い続けることになるからです。



凛童舎が考えている仕組みは、子どもたちを見守り、関わるのは、多様な人生を歩んだごく普通の者であればよい。ただ、子どもの一人格を認め、上からではなく横から目線の隣人として一緒にいてくれるだけで良いというものです。