たまたま「学童保育 高学年」というワードで検索していたら、「フルタイムで働くママ。小学生高学年以降どうしてますか?」という質問に出会いました。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0202/383451.htm?o=0


解答は、ほとんどが「なんとかなりますよ」というもので、ワーキングマザーさんたちの感覚ではそれが大勢なのだなと改めて危機感を覚えました。


確かに小学校高学年にもなればしっかりしてきますので、「物理的には」高学年には学童保育は必要ないのかもしれません。
しかし、「生育環境として」という重要な観点が抜け落ちていると思います。


人間の成長過程で「子ども時代」とは意外に短い期間です。それは、大人の常時の絶対的保護が必要な「幼児期」を抜け出してから、大人の感性を身につけ始める(楽しみ方が大人と変わらなくなってくる)「思春期」までほんの5,6年間(それはずばり小学校時代と重なります。)です。

思春期前であるが故の「素直な吸収力」と、幼児期後であるが故の「奔放な行動力」を両立できる貴重な期間なのです。


この期間を概ね一人で、あるいは、他者に接するとしても同学年の気に入った友達と、たまに気が向いた時だけ遊ぶという過ごし方をした子と、不本意ながらも年下の子どもたちとほとんど一緒にいて、一人にもなれず過ごす。そうしているうちに、下の子の面倒をみ、楽しませることに楽しみを、頼りにされることに喜びを覚える経験をした子とでは、将来、社会に出たときの他者との連携力が全然違ってくると思うのです。


日本の戦後の大躍進を、他者と力を合わせることで乗り越え、支えた先人たちは、みな、多くの兄弟や近所の悪がき集団の中で揉まれて育っただろうと思えば、容易に想像がつくことでしょう。


そこで、私と同様の考えはないかとネット検索をしていて以下の意見を見つけました。「NPO法人鶴ヶ島市学童保育の会」の方の分文章です。皆さんはいかがお考えになりますか?
http://bunbunbumbum.blogspot.jp/2013/12/6.html

以下は上記文中からの引用です。

高学年での学童生活こそ、子ども達の成長の場低学年での学童生活は、守られ、見守られる「保育」としての側面が大きくなると思います。私の子どもも低学年ですので、そういった印象です。高学年の学童生活については、他の子ども達を見ていてとか、保護者の方に話を聞いて感じたものにはなるのですが、

自分たちが主体となり、日々の生活の決め事を作ったり遊びの面でも、小さな下級生達に気を配りながら遊んだりイベントを自分達で引っ張っていったりといった、ただ守られる「保育」とは違った体験、経験がうまれる生活に変化していくように感じています。

そんな生活を通し、下級生にとって、指導員にとって、保護者にとって「必要な自分」「必要とされる自分」を自我の中に構築していくのではないでしょうか?

「必要とされる自分」を認識し辛い社会自分は誰かに必要とされていると認識する、信じることは、言うほど簡単な事ではないと思います。大人であっても、この事に関して自信を持って「私は必要とされる人間だ」と言い切れるのは一握りだったりするのではないでしょうか?

高学年での学童生活は、この自己肯定感を育てる格好の環境です。

遅くなってしまいましたが、14.9.23(火・祝)に東京サドベリースクールで行われた第1回勉強会の内容をシェアします。


私としては、サドベリースクールで生まれている子育ち環境を、学童保育でも再現したいと改めて思いました。



東京サドベリースクール 勉強会


「サドベリー教育が子どもにもたらすもの」

サドベリースクールのスタッフは子どもを信ずるプロ

日本はサドベリースクールが8校。(世界で二位。一位はアメリカの20校)

 

 

 

■サドベリースクールにないもの

 

1.固定されたカリキュラム、テスト、学年。(教えて欲しいと言われたものを教える)

2.よい大学よい会社よい人生

3.上下関係(偉い人)

4.融通の利かない概念

5.いつもみんな幸せでワクワクして、好きな事をしている自由

  好きなことがわからない、探している、モソモソとしている。

6.望んだときにすぐ得られる環境

  大人が事前に準備する子どもをだめにする。

  スタッフはできるだけ子どもに与えない。

7.他者への期待やコントロール(他人はコントロールできない)

 

 

 

■サドベリー教育にあるもの

 

1.自由と社会性:人と共に居ることができつつ自由

2.コミュニティ(共同体)と民主主義

3.子どもの人権:人が生まれながらにもっている社会的権利

4.ひとりの人間として対等

5.自分と向き合い続ける時間と環境

  膨大な空き時間。

6.答えのないものに答えを生み出す。

7.自由に伴う責任

 

――

■なぜ普通あるべきカリキュラムやテストがないのか?

 

1.普通とは何か?

2.カリキュラムやテストの目的 →大人がさせたいこと。テストは大人が確認したい。

3.サドベリー的に考える、子どもという存在 大人は先に生まれただけ

  一般の大人が考える子どもという存在 未熟で手助けが必要

4.子どもであっても他人がコントロールしません。

5.すべてのことに等しく学びの価値がある。

 

 

 

子どもに自由は必要か?

 

1.子どもを自由にするとどうなるか?(大半が以下の6段階を進む)

  ゲーム、マンガに飽きるまで没頭する。(何ヶ月、何年……

  暇だ~。何をしたいか分からない。退屈。

  他の子が何をやっているのかが気になり、つまみ食いする。いろいろと試す。

  おもしろかった3つを再度やる。

  1つにしぼる。

  大好きになる、ここまででいいと思い、他に行く。

 

2.自由にすると誰にとって都合がよくないか? 大人にとって。

3.自由を味あわせるから、責任を体験する。

4.自由はつらいよ!? 何をして良いかわからないし、責任もかかる。

5.すべての自由と責任は本人のもの

 

 

 

いい子は本当に幸せか?

 

1.大人にとって都合のいい子 自分が見えている

2.他者の期待に応えようとするいい子 自分を見失う

3.自分の内側から出てきたものが行動になった結果、共感を呼ぶいい子。 大人は邪魔しない。

凛童舎では、高学年には「異年齢集団でリーダーシップを発揮する」という経験をさせてやりたいと思っています。

 

これは確かある子育て評論家の講演を聴いたときです。ほとんどその方の言うことに「なるほど」とすごく感動でき、とてもためになったのですが、一点だけ「それは違うなぁ」と思うことがありました。

 

それは、その先生のご子息が高学年になって「学童保育は楽しくない」と言って行きたがらなくなったことから、「高学年には、学童保育は必要ない。習い事などで代替すればよいでしょう。」と言われたことです。

 

「学童保育は楽しくない」というのは、無邪気に遊ぶ年齢を過ぎた自分が、まだその年齢である子どもたちと断絶感、あるいは疎外感を感じてのことで、ごく自然な感じ方だと思います。

 

ただ、だから「高学年に学童保育は必要ない」と結論付けるのは早急だと思うのです。「学童保育は楽しくない」のには、子育の上で重要な2つのことが欠落しているからです。

 

ひとつは、環境の問題です。舞台と言ってもいいでしょう。その学童保育園に、目上の者が目下のものの世話をし、いたわり、目下のものは目上の者を慕い、頼るという関係性を持った異年齢集団が形成できていないということ。

 

もう一つは、前述の環境のせいも多分にあるのですが、その子自身が、年下の者を「世話し指揮し楽しませるという楽しみ」に到達していないという成長の問題です。「喜んでもらう喜び」とでも言いましょうか。

  

この問題は、放置し習い事などで代替させて、時間をやり過ごせばよいというものではないと私は考えています。「自分が楽しい」ことだけに価値を置き、「他者を楽しませること、ひいては喜んでもらうこと」に興味を示さない子ばかりが世に出て行くと、日本社会はどうなってしまうのか心配です。

 

小学校高学年をどう過ごすかが、社会にぶら下がるだけの人間になるか、社会を支える側の人材に育つかの、重要な分かれ目だと思うのです。

 

「縛りのない自由な時空=放課後」を持っている小学生時代が重要です。中学に上がってしまえば「大人見習い」が始まり、子どもらしい自由奔放さは減少していくでしょう。放課後の過ごし方はクラブ活動や習い事が主になって、「集団を自分で仕切っている」と感じられる場面はなくなって行きます。たとえ部活のキャプテンになったとしても、顧問の先生や監督の指揮下に入ることになるのですから。

 

また、「子ども時代の思い出は?」と聞かれたときに多くの方が小学生時代のことを思い浮かべるように、この時代に形成する自己イメージ、人間観、世界観が大きく人生を規定するように思います。

 

小学生時代に異年齢の、性格の違う子どもたちと、ぶつかりながらもともに楽しく遊んだ記憶があり、長じてその子たちのリーダー格になって、遊びをリードし楽しませた経験があれば、人と楽しく働くことも容易になるでしょう。「働く」という行為自体、「他者に喜んでもらって、対価としてお金を頂く」という行為であり、その行為は多くの場合、他者と協力して行うものだから。

 

なので、大げさではなく、高学年の過ごし方が「幸福に生きる力」の根幹になるスキルを得られるかどうかの分かれ目だと考えます。

 

逆に、この時代に「自分が楽しいかどうか」だけを判断基準にする世界で過ごした子は、なかなか人のため、社会のためという発想に至ることが出来ないのではとも思えます。また、ひとの気持を思いやって行動するとか、人がどう感じているか想像するとかいうことも苦手になるではと思います。

 

そうすると、どうしても、人に認められない、評価されないということになり、結果「生き辛さ」を感じるようにもなってしまうことと心配されます。

 

かつて、昭和40年代から50年代には、そこここに、近所の子どもたちで構成された異年齢の子ども集団があって、「世話された経験」から自然と長じれば「世話する側」に回り、やがて中学に進むと集団を卒業して次世代に受け継がれるという循環の中で、順に、自然に、多くの子がメンバーシップとリーダーシップを学ぶというシステムがりました。しかし今はそういうものが自然発生的にできるということはなくなりました。

 

でも、今の時代にもそういうリーダーの素質を持った子はいます。930日のブログ(http://ameblo.jp/rindows/entry-11932491527.html)で紹介した子もそうです。

 

このケースでは、遊び自体、みていてもルールはよくわからなかったのですが、要するにぬいぐるみのぶつけ合い。4年生の男の子VSその他の子という構図になっていて、こういう構図になったとき一人にされた子が意固地になって、やがて陰険な本気のぶつけ合いに発展するのが常ですが、この4年生は、ゆったり構えていて、上手に下級生を「遊ばせて」いました。「この玉には、毒針が仕込んである!」というと「わ~!」と下級生が逃げ散り、「30秒、やっすもっと!」というと、下級生たちが、そーっと寄ってくるというように、下級生が飽きないよう上手にメリハリをつけていました。まるで、オーケストラを指揮する指揮者のようで感心しました。

 

こういう子が将来、プロジェクトチームを率い、チームメンバーの間が険悪にならないように、いやむしろ、いい気分で、嬉々として意見を述べ合えるような雰囲気を生み出して行き、大きな成果をあげるのだろうなと思いました。

 

良いメンバーシップを発揮できるものが社会を「支える」人材だとしたら、この場でリーダーシップを発揮できる人材は、社会をさらなら高みへ「引っ張り上げる」ことのできる人材です。

 

支える人材よりぶら下がる人材が多ければ、私たちの息子、娘の時代に日本社会は崩落してしまいます。引っ張り上げる人材が居なければ、未来に完全は期待できないでしょう。未来に希望を抱けない暗い社会に生きさせたくはありません。

 

今後の日本には、どうしても国内で実施しなければならないもの(たとえば清掃など)以外、単純労働はなくなっていくと思われます。これからは、チームで、今までにないアイディアをブラッシュアップし、付加価値を生み出していくことが日本の生き残る道になるはず。

 そういうチームを率いて、チームのパフォーマンスを最大に引き出さる人材が最も重宝されるでしょう。

 

だから、凛童舎は、自然発生的には生まれなくなってしまった「高学年を含んだ、適切な規模の異年齢子ども集団」を学童保育という環境の中に形成することを目指しています。

ボランティアさんの子ども(小学4年の男子)が、自分も楽しみながら、上手に年下の子どもたちを遊ばせています。見事なものです。

 子どもたちは、みんな汗だくで「きゃっきゃ、きゃっきゃ」と楽しそう。なので自由にさせています。(今日は暑いので窓全開なのですが、近所から苦情が来ないか心配ですが・・・。)

 


なかなか、最近いないんですよね。こういう風に「遊びをプロデュース」できる高学年が。

 凛童舎では、こういう高学年を、たくさん輩出したいなと思っています。

 
「遊び」も一つのプロジェクト。

 
今後の日本には、単純労働はなくなっていくと思われます。これからは、プロジェクトチームで、今までにないアイディアをブラッシュアップし、付加価値を生み出していくことが日本の生き残る道になるはず。

 そういうチームを率いて、チームのパフォーマンスを最大に引き出さる人材が最も重宝されるでしょうから。

924()に行いました「森の探偵団」の様子をお伝えします。ご報告が大変遅くなってしまい申し訳ありません。

 
凛童舎の子どもたちの中で、「森の探偵団」には参加せず、自由遊びを選択した子たちがいて、私自身はその子たちの見守りをしていたため、今回の森の探偵団の内容を全く知りません。

 
そこで、子どもたちと一緒に「森の探偵団」に参加してくれていたボランティアのOさんのレポートでお伝えしたいと思います。

 

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小雨が降ったりやんだりで不安もありつつ、今日も田喜野井公園で『森の探偵団』としてインタープリターの智ちゃんの教えてくれた遊びをしました。

 

一つは「こうもり」とその餌である「蛾」をつかまえる様子を再現した鬼ごっこです。

これは、子どもたちみんなで手をつないで大きな輪っかを作り、その中だけで行う遊びです。

その中で、鬼は子どもの中から一人が目隠しをして「こうもり」となり、2~3人の「蛾」はそのこうもり役の子から逃げるのですが、この時みんなで作った輪っかからでてはいけません。

しかし、狭い中でも目隠しをしている「こうもり」は「蛾」がどこにいるかわかりません。

ですから、実際のこうもりがやっている超音波の代わりに声を出して呼びかけ、蛾がそれに返事をする事でその位置を把握しながら捕まえるのです。

捕まえられた子は壁に参加する事になるので、後半になるにつれて輪っかも広くなりいっそう蛾を捕まえにくくなるのです。

 

今日は公園に居た別の子どもたちも参加して、いつもよりもっとにぎやかになりました。

毎回呼びかけるたびに「次は僕がこうもりになりたい」「私は蛾に」とみんなが競って参加したがり、時間があっという間に過ぎてしまいました。

少し雨が激しくなったぐらいでも、誰もやめたがらなかったぐらいです。

 

 

少し休憩を挟んだあとの後半は、二人ペアを作ってお互いに「今日の公園で見つけた物を絵や言葉を自由に使って、招待状を書く」というちょっと頭を使う内容でした。

ですが、こちらの方は難しそうだったのか、凛童舎の子供たちは参加したがらずに、公園で出会ったゲストの子供たちを中心にして遊びました。

最終的にはみんなに発表するのですが、みんなの書いてきた招待状を見ると、落ち葉やどんぐり、松ぼっくりなどの秋ならではの自然を書いてきた子が沢山いました。

夏も終わり秋が近づいてきたこの季節、まだ青さの残るどんぐりが風に飛ばされて落っこちてきたものを、子供たちはいち早く見つけたようです。

 

そういえば、静かな落ち葉色の公園の中で、ふいに目につく異色なものを描いてきた人もいました。真っ赤に鮮やかな彼岸花です。

あちこちの彼岸花は今が咲き頃なのか絵に描いたように強烈に目に入ります。ですが、それを綺麗だという人も居れば不吉だったり、不気味に思う人も居るのでしょうか。

いくつかの彼岸花はぽっきりと頭を摘み取られていました。

 

ですが、子供たちにとってはそんな事は全く関係なく、「あそこにも」「ここにも」と無邪気に彼岸花の色を楽しんでいました。

 

智ちゃんの都合で来月は『森の探偵団』はお休みになるそうで、次回は11月になると聞きました。

さて、その頃にはまたどんな色を見つけられるでしょうか。今からそんな事を想像してわくわくしてしまう……そんな一日でした。