http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150219-00043157/
曰く
「感動」や「涙」の怖いところは、それに陶酔して、当のイベントがもつ負の側面が見えなくなってしまうことだ。
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確かに「陶酔」は恐ろしい。それは自らの快感であって、他者を思いやる心が抜け落ちるからだ。
主権回復の日とやらの式典で、天皇陛下の前で唱和された「天皇陛下万歳」の声。自分の名を唱えて死んでいく多数の国民を想起させる言葉は、金輪際そういう姿、状況を見たくないであろう天皇陛下の気持ちも考えず、自らの快感にしたがって唱和が始まったものだ。自分勝手も甚だしい。
解釈改憲、秘密保護法でフリーハンドの余地を広げ、経済政策を前面に押し出した目くらましによって勝った衆院選によって得たフリーハンドの時間をつくって、安倍首相がやろうとしていることもまた、強い日本、かつての一等国日本の再生という目的への陶酔ではないかとおもわれる。
さて、教育現場のこれは、「親への感謝」や「自分を大切に思う心」が失われていることに危機感を感じて企画されたものと思う。
私はこの論のよううに、一概に配慮に欠けるとは思わない。この論が正しいとすれば、誰かにさわりのあることは一切できないということになる。最大公約数的なことだけやる教育現場で良いのか?
この論の事例で出てくる家庭の場合でも、堂々と生後2か月半の写真を出せばよいし、堂々と、「生まれてすぐの様子は判らないけど」といって、2か月半のその子を受け取ったときの様子や気持ちを書けばよいと思う。それでこの企画の主旨は叶っていると思う。
虐待を受けた子は、親に感謝できないということを説明すればよい。そして、親の代わりに彼、彼女のことを大切に思う人たち、児相の担当者、養護施設のスタッフ、教師らが一言ずつでも書いてあげればよい。
目的は、「あなたは周囲に支えられている、大切な一人なんだよ。」ということを本人に伝えることなのだから。
問題は、その子が他の子と同じ状況でないことではなく、それを受けとめる周囲が、それをやさしく受け取る包容力、寛容さを持てているかの方だ。
そのためには、今、世界が何を理想としているか、その恩恵を皆がどれだけ受けているかを子どもたちに知っておいてもらう必要がある。
私が思うに、世界は、「人は、その人に責任でないこと、その人の努力で解消できな様なことで、差別されたり、制限されたり、責められたり、不利益を被ったりするのは理不尽である。」という理想を追い求めているように思う。その理想のために努力し、ときには命を落とした人もいる。
われわれもその理想の恩恵を間違いなく受けている。身分というものが残っていたら行動を制限され、学校にも行けず職業の選択も自由ではなかったかもしれない。有色人種への差別が小さくなっているのも過去の人々の努力のたまものだ。
だから、自分たちも、その理想の実現に努力する義務があるということを、わかってもらう必要がある。
「生みの親がそばにいない」ということは、その子のせいですか?「親に虐待される」のはそのこのせいですか?そういう子たちが理不尽な目に合うことは正しいことでしょうか?あなたがそのようにならなかったのは、あなたが偉かったからですか?
そういうことをよく考えてみてほしいものだ。
ただ、その理想は、世界ではもちろん、日本でも完全には実現できていないのは言うまでもない。
ある発達障碍児のお母様が言っていたことを思い出す。「この子はこの先、幾多の理不尽に出会っていくことになる。だから、多少の理不尽に耐えられる力を身につけつつ育ってほしい。」と。
社会的ハンデのある子を、周囲は温かく受け入れる努力はすべきだ。しかしだからと言って、社会でその子が、まったく理不尽な扱いを受けないと考えるのも楽観的すぎる。その子は、その理不尽をはねのける強さを徐々に身につけていく必要がある。
あの錦織圭が、アジア人蔑視の風の中、マイケル・チャンとともに鍛えた強いメンタルであの躍進を遂げたように。ttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150215-00042099-gendaibiz-soci
だから、そういう子からハンデを感じさせるような状況を一切排除し、純粋培養しようというのは教育としておかしいと思う。子どもを弱いものと決めつける大人の思い込みだと思う。子どもは結構強いのだ。しっかり見守る誰かが居さえすれば。
学童保育「キッズコミュニティ凛童舎」が極力大人の関与を排した子どもだけのコミュニティに子どもたちを置こうとするのも、私が経験した放課後異年齢子ども集団には、これらすべての学びがあったなあと思うからだ。
放課後異年齢子ども集団は、結構デモクラティックだ。大人という絶対強者がおらず、力量はほぼ対等、低学年も、まっとうな上級生が保護し、気持ちの代弁もしていた。
当然ながら多少の理不尽も存在し、耐性を身につけられる。しかも、耐え難い場合は、集団を離脱したの集団に所属するという選択肢もあった。
親同士が仲が良いうとか悪いとか、生活レベルや、職業や(親が床屋で、友達の親が底の常連だったりすると微妙な空気があったり)親が厳しいとか優しんとか甘いとか、そういった家庭の事情に多少に影響を受けつつも、自分たち子どもは、そういったことを「水平に広がる差異」であって、上下に連なる「優劣」という風には全くとらえていなかった。つまり、多様性の容認力も培われていたと思う。大人から独立したコミュニティの効果だろう。








