余談だが、そんな、我々の様子を見ていて、高校の現国の先生が「あんなもんは文学ではない!」と挑発してきた。
私はそうでもなかったが、友人がこれにも猛反発、独自の「星新一論」を書いてその先生に叩き付けた。その後何度か文章と会話の応酬があったと思う。
今思うと、この先生、「あんなもんは文学ではない!」かどうかなど、どうでもよかったのではないかと思う。ただ、我々に「自分の意見」を熱く語らせたかったのでは?と。
(子どもを動かしたいとき、叱るだけが方法ではない。目的を見極め手法を選ぶ。これが大事なんだと思わせてくれた教訓だ。)
これがキッカケで、私は卒業文集に自作のショートショート3篇を掲載するに至り、それを見た友人たちが「やろう」と言い出して、予備校で「SF同人誌」を出すに至った。ちなみに私は、彼らとの楽しい予備校生活にあこがれて、「合格無理」と言われていた大学をわざと受験した。
これが大正解だった。正直、私の青春時代で、予備校時代が最も充実した、かつ最も楽しい1年だったと言い切れる。
まあ、それにはいろんな要素がからんでいるのだが、一番大きな要因は「何をやって遊んでいても戻るべきところが決まっている」ということだと思う。つまり、自分で何をすべきか考える必要はなく、最後は「勉強」にもどると決まっているのだからこんなに気楽なことはない。
だから、私は、今の子どもたちの中に、この「楽さ」に依存している子たちが居るような気がしてならない。だって、「ここからここまで全部わかればあなたはいい子」って言われるのだから、いい子になるのがすごく簡単。自分でやるべきことを選択しなくてよいのだ。しかもやるべきことが有限なのだからますます簡単。どうだろう?
小学生なのに「今、公文で中3レベルやってんだ!」と自慢げな子がいる。でも、私はバカだと思う。そんなものは、その年になったら大抵の子どもたちが解るようになることだ。それを数年早くわかるようになったからと言って何がすごいものか?
それに、中3までの授業の内容が解るなら、小学校の授業はつまらないものだろう。その授業をしている先生は尊敬できないだろう。その授業をまだわからない同級生たちは、バカに見えるのでは?
そういう景色の中で生きるのは、人格形成にどう影響するだろうか?つまらない授業を、1日の大半、黙って座って聞いて居なければならない人生に、どういう感想をもつだろうか?前向きになれるのだろうか?
それよりも、今のその精神レベルでしか見えないものがある、持てない感想がある。できない感動がある。それを手に入れないでただ通り過ぎていく。
その経験がなければ、10年後、20年後、同じものを見、同じ状況を体感したときのそれと比較ができないではないか?自分というベクトルの向きと大きさ、自分の軌跡が解らない。ただ宇宙に漂ってきただけのような印象になるのでは?
ドリカムのデビュー「笑顔の行方」にあるように「同じ笑顔はできなくても・・・」の・・・が語れるのだろうか?
・・・・
あれ?余談が膨らみ過ぎて、本題から大きくそれてしまった・・・
星新一のこの一篇について語ろうと思っていたのだ。
子育てロボットがある会社によって開発された。10年間レンタル無料だという。親たちはこぞってレンタル。きっちり躾をしてくれて、どんなわがままを言っても、そのロボットが静かに「ダメですよ。」とたしなめると「は~い」と言って大人しくなる。
10年が近づくと、親たちも「もう、すっかり子の子も手がかからなくなったから、ロボットは返そうか」ということになり、どんどん返品されるようになった。
すると、ある日突然そのロボットがTVに現れ、「この製品を買いましょう。この製品を使う子がいい子なのですよ」と言い出した。
子どもたちは、「あれ買って~!!」と大騒ぎ、という落ち。
ばかばかしい内容だけど、「判で押したような教育は何を生むか?」を示すおとぎ話として頭に染みついている。



